メイン » » » 杉野繁一
すぎの しげいち

杉野繁一

すぎの しげいち

1887(明治20)〜 1973.2.21(昭和48)

大正・昭和期の建築家、洋裁学校経営者

埋葬場所: 22区 1種 79側 1番

 愛知県出身。杉野清右エ門(同墓)の子。旧制愛知第三中学校(愛知県立津島高校)を中退し、単身渡米。英語が話せないままアメリカに渡米したため、ハイスクールから上がり、スタンフォード大学で建築家を目指すため土木を専攻、卒業。 その頃、洋裁の勉強のためニューヨークに来ていた岩沢芳子(同墓)と知り合い同地で結婚。卒業後は米国で鉄道会社に勤めた。1920(T9)夫婦揃って帰国。繁一は日本電気に勤めた。 芳子は'26東京芝桜田本郷町(虎ノ門)のビルの一室を借りてドレスメーカー・スクールを開校。月謝は10円、生徒は三人だった。繁一は平壌に渡り建設会社に入社し建築家として活動。
 '32(S7)白木屋の火災の際、店員が和装の裾を気にするあまり命綱をつたわることができず、多くの犠牲者を出した事件があり、洋服が注目されるようになる。そのため、芳子の学校の生徒数が増え、校舎も足りないほどとなった。 芳子は院長として一人できりもみしていたが、厳しく、繁一に仕事をやめて帰ってきて一緒にやってほしいと懇願されたため、帰国。服飾教育の杉野学園を1932(S7)を創立し初代理事長となる。
 第二次大戦で学校は焼失したが、'47自宅でスクールを再開した際、家の門に“願書受付”の表示を出すと、入学希望者が目黒駅まで長蛇の列をつくった。 戦後の洋裁ブームもあり、生徒数も激増したため、規模を拡大。ドレメ通りの両側の校舎、体育館、博物館などの建物は繁一の設計により建てた。
 '54私費で文部省に出向させ基本調査や指定統計をとらせ、初めて各種学校規程を文部省令でつくらせ、国会を動かし共済組合に法人立各種学校を入れさせることに尽力した。 現在の各種学校、専門学校があるのも、そこから端緒を開いたといっても過言ではない。 芳子はドレメ式洋裁を確立した服飾デザイナー“ドレメの女王”として、繁一はその土台を支える経営者として磐石を築いた。享年85歳。

<人間っておもしろい(日本図書センター)など>


墓所

*墓所には二基。右側が和型「杉野繁一 / 杉野芳子 之墓」。左側が和型「杉野家之墓」。その左側に墓誌が建つ。繁一の戒名は広学院釋慈繁居士。芳子の戒名は榮光院釋妙芳大姉。両方の墓石裏面に「昭和二十年三月 杉野繁一建之」と刻むため、自身の墓石を生前建墓していたことがわかる。なお、墓誌より、繁一の父の杉野清右エ門は大正8年に没し、母のなき恵は昭和24年に亡くなっていることから、墓所を東京大空襲など戦火が激しい時期に得たことが推測できる。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・さ行 | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。