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すぎはら そうすけ

杉原荘介

すぎはら そうすけ

1913.12.6(大正2)〜 1983.9.1(昭和58)

昭和期の考古学者、文学博士

埋葬場所: 10区 1種 13側 26番

 東京日本橋小舟町出身。老舗の紙問屋「杉原紙店」の杉原半(同墓)の長男に生まれる。少年期に下総姥山貝塚を訪れて古代の魅力を得る。
 府立三中(都立両国高校)の時代に鳥居龍蔵の武蔵野会に所属し発掘に打ち込む。この頃に考古学者の森本六爾に出会ったことより考古学への研究の志が高まった。1932(S7)19歳の時には「史前学雑誌」に『下総飛ノ台貝塚調査概報』を発表、その後、森本の創立した東京考古学会の同人としても活躍。
 中学を卒業した後、家業の杉原紙店を継ぐが、夜間に学校に通わせてもらうことと、考古学を続けることを継ぐ条件として父親に談判し了承を得た。東京外国語学校仏文語科、上智大学外国語学校独語科の夜間部の聴講生として、家業をしながら語学の研鑽をした。同時に旧石器や考古学全般に渡る原書を購入し独学。'37父が亡くなる。家業を縮小し、'41明治大学専門部地歴科に27歳の時に入学し考古学を本格的に学ぶ。'43修了。卒業論文は『原史学序論』。考古学を志す同志である藤森栄一の経営する葦牙書房より『遺書 原史学序論』として出版し、軍務に服す。
 佐倉歩兵57連隊の一等兵として召集されたが、戦地で病気になり、南京の留守部隊に残された。歩兵57連隊はその後フィリピンに派遣され全滅(生還者はわずか80名)している。留守部隊で命拾いした杉原はまんじゅう作りに従事していた時に、歩兵第1連隊の江坂輝彌上等兵と偶然出会い、登呂遺跡の発掘計画を語り合ったという。江坂は戦後、考古学者・慶應義塾大学名誉教授となる。
 '46春に復員し、文部省に勤務。国定歴史教科書『くにのあゆみ』の編輯などにあたった。'48明治大学専門部助教授、翌年に同大学文学部助教授、'53文学部教授となる。'59明治大学人文科学研究所長、考古学陳列館長、史学地理学科長を歴任した。
 この間、'47静岡県登呂遺跡発掘調査の推進者として中心的な役割を果たす。しかし、発掘調査経費が明治大学の後藤守一教授個人への文部省科学研究費交付という形で支出されたことが問題となる。文部省に勤務していた杉原が関わってたと推測される。そこでこれを機に全国的な学会設立をし、第1回考古学協議会を開催などを経て、'48日本考古学協会の創設に尽力した。
 '49群馬県新田郡の岩宿遺跡発掘調査の中心も担う。当初は考古学者たちから地質的に否定され冷遇され理解されなかったが、出土の石器群について、先士器時代の所産であることを確認、日本に旧石器文化の存在を証明する最初の発掘を手がけ、研究に基礎的な指針をもたらした。
 '53自説から青森県北津軽郡金木「遺跡」の「石器」が前期旧石器の遺跡として発表し、新聞でも日本最古と報じられ期待され、大学から多額の予算を投入してもらい発掘作業を行った。しかし、調査の半ばで石器ではなく自然石だと気づく。自説が偽石器であったと大いに悩むが、素直に認め偽り石器であると発表し撤退した。
 弥生時代の研究に優れ、'64「日本農耕社会の形成」によって、明治大学から文学博士の学位が授与された。論文中で土器の式名を定める時に「これからはこの種の土器を○○式と呼称する」と必ず明記したことは識見を知るに足る。杉原の設定した、真間式・鬼高式・国分式の標式名は、広く用いられ定着した。型式、学術用語のデパート杉原商店と称された。このように重要な遺跡の調査を主宰、弥生土器・土師器の編年研究の基礎をつくり、その社会のもつ意味を探る方法論の基礎を提示した。
 文化財専門審議会委員、日本考古学協会弥生式土器文化総合研究特別委員会委員長として活動。『日本農耕文化の生成』の刊行の中心となった。'67『日本の考古学』で毎日出版文化賞。他に『登呂遺跡』『日本先土器時代の研究』『日本青銅器の研究』など著作も多い。
 考古学者としての責務として、遺跡の発掘調査報告書の刊行を強く意識し『明治大学文学部研究報告−考古学』の刊行に力を尽くした。亡くなる3カ月前に病身に鞭を打ち、'60発掘調査をした『佐賀県多久三年山における石器時代の遺跡』を刊行。完成時に「これで私がなすべき報告の義務のある仕事は、すべて終えることが出来ました」という趣旨の手紙を添え、全国の研究者のもとへと送ったとされる。心臓発作で逝去。享年69歳。
 考古学の本質を一言でいうならば「歴史は時間の系列の中で研究する学問であり、考古学は形をみる歴史学」と語っている。

<コンサイス日本人名事典>
<ブリタニカ国際大百科事典>
<講談社日本人名大辞典>
<20世紀日本人名事典>
<杉原荘介記念室など>


墓所

*墓石は五輪塔「杉原家之墓」。右面に南無阿弥陀仏。裏面「昭和十四年六月十四日建立」と刻む。左側に墓誌があり、俗名と生没年月日が刻む。戒名の刻みはない。妻は明子(T9.8.10-H14.1.16)。外柵正面右側に「杉原家塋域」と刻み設計・施行などの名や日付が刻む。

*杉原家の墓石は、杉原荘介の考古学の師である森本六爾夫妻のお墓(奈良県桜井市粟殿極楽寺共同墓地)と同じデザインである。森本六爾(1903.3.2-1936.1.22)の墓塔は有志たちによって造られており、塔形は藤澤一夫のデザインである。杉原家墓石は森本の没後3年後に建立されているため模したと推測する。

<浅田芳郎『考古学の殉教者』などより推測>


*東京考古学会の設立者である森本六爾に杉原荘介らも参加していた仲間のひとりに、國學院大學の学生であった丸茂武重(4-1-24)がおり、森本六爾の口癖であった「考古学は文学である」という言葉に感銘し考古学者になった。


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