東京出身。父方祖父は日本洋画界の巨人と称された梅原龍三郎(同墓)。父はフランス文学者の梅原成四(同墓)。母は昭子(同墓)。母方祖父は企画院技師の田中隆一郎。母方祖母は ふじ。母方曽祖父は北信政財界の第一人者で政治家の小坂善之助(8-1-13)である。叔母の嶋田紅良はフランス語翻訳家。
父は若くして亡くしたため、祖父母に可愛がられる。祖父の龍三郎はるり子をモデルとした「瑠璃子像」を描いており、龍三郎没後にるり子が国立美術館に寄贈している。
慶応義塾大学哲学科卒業。舞台美術を多く手掛け、平面作品だけでなく、環境問題をテーマにした造形野外作品を発表し、インスタレーションアート作品を得意とした。これはある特定の室内や屋外などにオブジェや装置を置いて、作家の意向に沿って空間を構成し変化・異化させ、場所や空間全体を作品として体験させる芸術のことである。
1990(H2)古河「四季の径」彫刻大賞展で佳作。'90、'91、'96 多摩川野外美術展(東京)で倫雅美術奨励賞(彫刻)を受賞。
主な活動歴は、'88「ファイナル1988言葉展」動く現在展(東京)、'91、'94、'96「ダンス・コスモス」の舞台美術制作、'92 大町野外美術展(長野)。他にも野外表現展(埼玉)、国際野外美術展EVENT‐A4(スウェーデン)、祖母達の日々〈個展〉(ウプサラ・スウェーデン)、東京展(東京)21C韓・日美術交流展(韓国)など個展20回以上、グループ展は約50回。国際野外の表現展、現代美術展などに多くの作品を出品した。また昭和起重機製作所でモニュメント制作。
We Meet Again 再会プロジェクトを主宰。日本SJP 委員会副委員長や、国際野外の表現展実行委員会委員長を歴任した。2008.3.1-3.15 亡くなる直前に娘の城下万奈と「二人展」を催した。享年59歳。没後、2010 作品集『城下るり子』を夫の城下洋二、娘の城下万奈の編集で刊行された。
*墓所には正面二基、手前右側に洋型「和」の三基建つ。正面右側「梅原龍三郎 妻 艶 墓」、二人の生没年月日も刻む。艶(1893.9.14-1977.4.2)。正面左側「梅原成四之墓」、後から「昭子之墓」を右側に刻み足しており、成四(1919-1957)、昭子(1927-1998)と各々の生没年も刻む。台座に「父 龍三郎 記」と最後に刻む梅原成四の略歴が刻む。洋型「和」の裏面は墓誌となっており、幼くして亡くなった龍三郎の娘の梅原紅繪(1926.11-1929.2.28)と、城下るり子が刻む。左面「二〇〇八年七月 城下洋二 建之」と刻む。
*るり子の夫の城下洋二(1945-)は句集『銀杏坂』(2012)を出している俳人。句集には妻のるり子が病に付し、そして看取った際に妻を詠んだ句「花楓旧き友あり妻と呼ぶ 初花や急ぎ老いゆく汝の美し」がある。娘の城下万奈(1973-)は抽象画家・版画ペン画家として活動している。