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しらかわ ろくろう

白河六郎

しらかわ ろくろう

1902.12.7(明治35)〜 1985.11.16(昭和60)

昭和期の弁護士、東京高裁総括判事

埋葬場所: 6区 2種 6側

 福岡県出身。父は新聞記者、中国文学者、政治家として活躍した白河鯉洋(同墓)。1929(S4)東京帝国大学法律科卒業。卒業後、弁護士を経て、判事となる。
 東京地裁判事時代の、'53(S28)アプレゲール青年の暴走と騒がれた東京・新橋のバー「メッカ」殺人事件や翌年のカービン銃公金横領事件などを担当した。享年82歳。

<森光俊様より情報提供>


【バー「メッカ」殺人事件】
 1953年7月27日白昼、東京新橋のバー「メッカ」で証券ブローカー博多周さん(当時39)が殺され、現金40万円が奪われた。 その日の夜、酔客たちがビールを飲みながら談笑していると、天井から血がポタポタと落ちてきたのだ。 天井裏の物置には電気コードで両足と首を縛られ、鈍器で頭を潰された男の死体が転がっていた。そこで遺体発見現場を冠してメッカ殺人事件と呼ばれるようになった。
 この事件の主犯である正田昭(当時24)は慶応大学経済学部を卒業した青年であり、当時流行した「アロハシャツとリーゼントヘア」のアメリカ渡りの異形の若者たちを指したアプレゲールという言葉が、彼の起こした事件により更に決定的な代名詞となった。 事件は、バー「メッカ」のボーイ(当時20)、正田の麻雀仲間A(当時21)が指名手配され、共犯の二人は早くに逮捕されたが、主犯の正田は逃亡を続け、京都でやっと捕まった。逃走78日。
 殺人の動機を「義理のある人(恋人の母親)から預かった株券を無断で売却処分してしまった。 そのカネを返却するためにやった」(逮捕後の供述)というものであった。正田は大阪の弁護士の家庭に生まれ、慶応大学卒業後、証券会社に入社するも、他人の株券を・預金を使い込みクビとなっている経歴を持つ。この事件も遊ぶ金ほしさであった。
 麻雀仲間を誘って殺人の演習をし、実行した夜も徹夜麻雀にふけった。現場となった「メッカ」は目抜き通りの盛り場。 犯人がインテリの美青年で、動機は甘ったれ、手口は冷酷。このようなことから今までにない型の青年による犯罪、アプレ犯罪の典型と評判になった。
 判決は死刑。共犯のボーイは懲役10年。麻雀仲間は演習だけで怖気づいて不参加ながら懲役6年。控訴し、上告したが、いずれも棄却。1969年12月死刑執行。獄中16年。40歳で生涯を閉じた。
 この事件は正田と同年齢の作家の加賀乙彦『宣告』でも注目された。なお、正田は獄中でカトリックに帰依し洗礼を受けた。 1963年9月には獄中から投稿した小説『サハラの水』が「群像」新人賞候補作として掲載された。小説はサハラ砂漠に迷い込み水に飢えながら死んでいく現実から遊離した「僕」の幻想で終わる。

<新・殺人百科データファイル>


【カービン銃公金横領事件】
 別名、カービン銃事件、カービン銃公金ギャング事件などとも呼ばれる。
 1954年6月14日、保安庁(現在の自衛隊)の元隊員で主犯の大津健一(当時28)が仲間3人と共謀して、保安庁技術研究所会計係長夫妻をカービン銃で脅し、小切手7枚(額面1750万円)の公金を奪い、内97万円を現金化した。 大津らは係長負債をロープで縛り付けて逃走。係長夫妻は、事件から2日後の16日になって監禁先からの脱出に成功。警察に届け出て事件が明るみとなった。
 警視庁は夫妻の事情聴衆によって、その犯行の手口や人相などにより、犯人は以前強盗で逮捕した大津と断定。全国に指名手配した。 大津は元女優で準ミス銀座の愛人の中田みさおと一緒に逃亡。7月21日大分県湯平温泉で逮捕されるまで、換金した金で贅沢な逃走旅行を続けていた。 大津は一見紳士的で穏やかな雰囲気を持ち「宮様」のようだと言われ人気があり、中田は元女優で美人。そのため2人の護送は大騒ぎとなり、東京駅で報道陣と野次馬で5000人が集まり一時パニックとなった。
 大津は取り調べで、東京都下で発生し迷宮入りと言われていたマンホール殺人事件の犯行も自供した。 1958年6月7日東京地裁は11件の罪名で大津に死刑判決。大津は控訴し、東京高裁で無期懲役。上告を取りやめ無期懲役が確定。 25年間の服役を経て、1978年仮釈放された。この事件は後に映画化された。

<事件史探究>


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