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しんばし きよぞう

新橋喜代三

しんばし きよぞう

1903.10.12(明治36)〜 1963.3.23(昭和38)

大正・昭和期の芸者、歌手

埋葬場所: 21区 1種 6側 3番(中山家)

 鹿児島県西之表市(種子島)出身。本名は中山嘉子。旧姓は今村。旧名はタネ。作曲家の中山晋平(同墓)の後妻。
 1916(T5)鹿児島市にあった西検番より八重丸の名で芸者に出る。途中、台湾に渡り蔦奴と名乗り芸者稼業を続けたが借金が嵩み帰国。再び西検番の所属となり、名を喜代治と改める。 '26(T15)『小原良節』の歌い手として名をあげ、'31(S6)キングレコードよりレコードデビュー。 同年、鹿児島で産業博覧会が開催されるにあたり宣伝ソングを任された作詞家の西条八十と作曲家の中山晋平が取材のため鹿児島を訪れ、宴席で喜代治の接待を受けた。 その席で喜代治が披露した『小原良節』に感激した中山は、喜代治に上京して歌手となるよう熱心に勧めたといわれる。 なお産業博覧会の宣伝ソングは葭町二三吉(藤本二三吉)が歌った「鹿児島小唄」である。
 中山の熱心な説得に折れ、喜代治は新橋花柳界へ移籍。その際に名を喜代三と改めた。その美貌と優れた芸がたちまち評判となり、政財界をはじめとする当時の名士の座敷を勤めた。 '34(S9)ポリドールより新橋喜代三の名で『鹿児島小原良節』を出し大ヒット。翌年'35『明治一代女』でも大ヒットを飛ばす。 同じ頃、山中貞雄監督の日活映画『丹下左膳余話・百萬両の壺』でヒロインお藤を演じるなど映画出演でも活躍した。'37上京後、愛人関係にあった中山が夫人を亡くしたため結婚。それを機に引退した。
 '52中山の没後、一時期本名の中山嘉子や喜代三の名で歌手として復帰をし、自叙伝『多情菩薩 喜代三自伝』を出版。晩年は熱海で暮らしながら中山晋平音楽祭などに関与した。

<戦前歌手名鑑など>


*墓石は和型「中山家霊塔」。右側に墓誌がある。戒名は清楽院晋山明響居士。前妻の敏子の戒名は清峰院覚室貞敏大姉。後妻で新橋喜代三は戒名はなく本名の中山嘉子のみ。晋平の養子(墓誌には晋平長男と刻む)の中山卯郎の戒名は松峰院卯岳祥栄居士。


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