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しますえ たつじろう

島居辰次郎

しますえ たつじろう

1905.9.12(明治38)〜 1997.10.4(平成9)

昭和期の逓信官僚、海上保安官、
南極観測尽力者

埋葬場所: 3区 1種 31側

 広島県尾道市出身。島居又五郎の四男。長兄は日本銀行で勤めた銀行家の島居庄蔵(同墓)。次兄の島居松次郎(同墓)は順天堂医院に勤めた医学博士、三兄は島居金次郎(同墓)は富士電機技師・常務取締役。
 福島県立福山中学校、第一高等学校を経て、1930(S5)東京帝国大学法学部卒業。卒業後、逓信省に入省。逓信省事務官 兼 興亜院事務官、経済部第三課、逓信省書記官、管般局労務課長 兼 企画院書記官を歴任。専任企画院書記官第六部第二課長を経て、海務院書記官総務部総務課長、企画院調査官 兼 企画院書記官などを務める。
 戦後は逓信省が運輸省へと変わった後も引き続き、北海道海運局、近畿海運局長などを経て、'53 海上保安庁次長を歴任し、'55.5 第4代 海上保安庁長官を就任した。
 海上保安庁長官に着任した頃、日本は第1回目「南極会議」に出席し、南極観測計画に加わろうという気運が高まっていた。しかし、南極観測に正式に参加するには、政府の決定、巨額の国家予算の捻出、南極観測に用いる砕氷船の調達などさまざまな難問が山積みであった。この計画に賛同した近代磁性物理の父と称される日本学術会議の茅誠司会長が海上保安庁を訪れ、島居と直接相談があった。この時に茅から「9月に開催予定の国際会議でわが国も南極観測に参加することとしたいが協力をお願いしたい」と要請された。これを受けて島居は、非常に困難でしかも危険が伴うこととはいえ海上保安庁全職員も賛同してくれることを確信し要請を受けることにした。
 だが南極観測に用船できる適当な船はなく、新造するには建造費及び建造期間の点から不可能であることが判明。結局、国内で改造可能な船を検討する中で、耐氷構造の「宗谷」が候補に浮上した。茅と島居が基本方針を確認した後、大蔵省が南極観測の輸送業務について説明を求めてきた際に海上保安庁は、「宗谷」を南極観測船への転用にむけて大改造を要する旨を回答した。こうした素早い対応によって南極観測計画の骨子は固まる。第2回「南極会議」では白瀬南極探検隊などの過去の実績も語り、日本が南極観測に参加する意思があることを表明した。しかし、敗戦して10年しか経っていない日本に対して、白人と戦勝国しかいない南極会議に出席している各国から反対意見が続出した。粘り強く訴え、アメリカとソ連の賛同を得てかろうじて参加が承認されることになった。ところが、参加各国の観測基地の具体的な割り当てが行われた際に、日本はプリンス・ハラルド海岸となり、この地は人跡未踏で、接岸不能とまでいわれた南極の空白地帯であった。
 「宗谷」を灯台補給船から南極観測船に仕立て人跡未踏にチャレンジしていくことを世界で了承を得た二か月後、南極観測に参加することが正式に閣議決定。文部省内には「南極地域観測総合推進本部」が設置された。'58.12 島居は海上保安庁長官を退任するが、それまでの間、戦後日本の大プロジェクトとなる南極観測実行に向けて尽力した。
 島居は絵を描くことが趣味であり、当時、運輸大臣を務めていた三木武夫に絵を描くことを勧めている。また'91(H3)画文集『虹の華』を刊行した。
 運輸省を退官後は、特定船舶整備公団理事長に就任。'75 第3代 日本原子力船開発事業団理事長なども務めた。'79 勲2等旭日重光章授与。後年はセナー株式会社の会長も務めている。享年92歳。

<船の科学館『宗谷』の歴史>
<大衆人名事典><人事興信録>


墓所 
墓所

*墓所には道沿いから奥に向かい島居四兄弟の墓石が4基並び、奥に小さな墓石を合わせて5基建つ。一番奥は長男の島居庄蔵一家の和型「島居家之墓」。右面に島居庄蔵(M23.4-S47.10.19)の名と歿年月日と享年が刻む。左面は庄蔵の妻のツネ(M29.8-S58.3.26)、愛媛県出身で近藤貞次郎の4女。その左に幼くして亡くなった子の小さな墓「釋妙説聲順童女」。

*奥から二番目は二男の島居松次郎一家の和型「護念院釋浄松居士 / 護法院釋正意大姉」、右面に島居松次郎(M28.4-S29.3.30)の名と歿年月日と行年が刻む。左面は松次郎の妻は正代(M28-S57.3.12)、大阪府出身で保澤調作の5女。裏面は墓誌となっており、島居正(H29.1.29歿・行年86歳)が刻む。

*奥から三番目は三男の島居金次郎の墓「南無阿弥陀佛」、左に墓誌が建つ。島居金次郎(M30.10-S59.2.18)の戒名は至誠院釋金台居士。金次郎の妻の祝(M34.9-S59.11.7)は香川県出身で旧姓は成瀬。

*道沿いの墓石は四男の島居辰次郎の墓「昭親」、左隅に「大本山増上寺八十六世 大僧正 仁譽書」、裏面「平成八年一月 島居辰次郎 建之」と刻む。左に墓誌が建ち、妻の島居加津子(H8.3.23・享年81歳)から刻みが始まり、「キリスト教新教」とも刻む。島居辰次郎はクリスチャンではなく仏教徒であり戒名は大乗院安譽辰精和親居士と刻む。

*島居又五郎は4男1女を儲け、長男は島居庄蔵で銀行家。二男の島居松次郎は順天堂医院に勤めた医学博士。三男の島居金次郎は富士電機技師・常務取締役。四男の島居辰次郎は逓信省・海上保安官。長女の早苗(T7生)は大使館書記官の島重信に嫁いだ。


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