石川県出身、東京育ち。父は造船工学者の重光蔟(同墓)で、父が第四高等学校教授時代に生まれた。誕生翌年より東京に戻っている。
東京帝国大学政治学科卒業。1938(S13)外交官試験合格。'39外務省に入省。ロシア語在外研修員としてポーランド、ラトヴィア、ブルガリアで研修の後、フランス、スイス在勤。
'46帰国し、'51条約局第三課長、'59欧亜局参事官、'61在ソ大使館参事官、'65駐ルーマニア大使、'68国際連合局長、'70駐ナイジェリア大使、'74駐ソ大使を歴任。
'79電々公社特別参与。ソ連研究家、外交評論家としても知られた。著書に『ソ連を見る眼』『北方領土問題とソ連外交』『わが憶出のロシア人』など。享年84歳。
*墓石は和型「重光家之墓」。右側に墓誌が建つ。左側に公園にあるような三人掛けのベンチが墓所内に設置されている。
*重光蔟の父は重光直愿。重光蔟の妻はミよし(M23.8.14-S57.4.9:墓誌に「み」のみカタカナ「ミ」となっている)。ミよし は古丸藤三郎の長女。重光蔟とミよしの間に3男1女を儲けている。全員同墓に眠る。長女の章子は早死、長男の彊も早死。二男は外交官として活躍した重光晶。三男は重光胖(ゆたか:T7.5.16-H29.9.21)。重光胖は『随想 技術の心』『東西の心の上に : ある物理学者が米国南部で考えたこと』の著書を刊行している。重光晶の妻は綾子(S2.11.26-H29.12.8)。綾子は外務省の山路章の娘。重光胖の妻は祥子(S6.1.26-R5.6.11)。
*大分県国東市安岐町山口の谷合墓地に代々の重光家のお墓がある。重光晶の高祖父である頼之(彦四郎・由斉・岩屋松木氏の出)と高祖母の玖美子(両子林氏の出)夫婦以降の人たちが眠る。叔父で太平洋戦争時期の外務大臣で、終戦時に政府全権としてミズーリ艦上で降伏文書に調印した重光葵・喜恵夫婦も本家の墓所に眠る。