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しばた けいさく

柴田畦作

しばた けいさく

1873.7.6(明治6)〜 1925.1.2(大正14)

明治・大正期の鉄筋コンクリートのパイオニア

埋葬場所: 2区 1種 11側 22番

 岡山県出身。柴田猪作・能恵(共に同墓)の長男として生まれる。1896(M29)東京帝国大学工科大学卒業。九州鉄道会社技師となり、のち第三、第五の各高等学校教授に就任し、東京帝国大学工科大学助教授に転じ次いで教授となる。 のち土木工学研究のため独仏米に留学、帰国後1905(M38)工学博士の学位を受けた。わが国において初めて鉄筋建築を研究した人で、応用力学および構造学に造詣が深く、福島県原町市の無線送信所主塔200mを鉄筋で造り、明治神宮の神橋も設計した。
 「柴田博士著:工業力学」と「廣井博士著:築港」から、日本の近代土木工学の基礎が生まれ、それらは明治・大正時代に教科書とされた。
 廣井勇(6-1-8-15)は築港および橋梁技術の世界的権威として知られ、柴田は本格的鉄筋コンクリート建築の祖として知られた。 構造設計は建築系出身者ではなく土木工学科出身の柴田が担当し、設計は建築学科出身の山口孝吉が担当、二人が協力した現存する代表は、京都の七条大橋(大正2年完成、鉄筋コンクリートアーチ橋)や、東大本郷キャンパス理科大学化学教室、正面(大正4年 5月竣工)などがある。 明治末期の三大事業計画(そのうちの道路拡幅、 市営電気軌道敷設)に基づく研究にも尽力した。「初等工業力学」の著書も代表的なものである。正5位 勲5等。享年51歳。

<講談社日本人名大辞典>
<日本人名大事典 平凡社>
<人事興信録など>


墓所

*墓石前面「柴田」。右側に墓誌がある。両親と息子の柴田圭一夫妻には戒名が刻むが、柴田畦作、妻の梅子は俗名と没年月日のみである。

※多くの人名辞典の没年月日が「大正14年1月5日」としているものが多いが、墓誌には「大正14年1月2日」と刻むので、そちらを優先する。また、柴田畦作の妻を「ムメ」とするものがあったが、「ウメ=梅子」が正しいと思われる。なお、墓誌には「柴田梅子」と刻む。


『磐城無線電信局原町送信所跡』
 地上高201.1メートルもある鉄筋コンクリートの巨塔が天高く白雲を貫いてそびえ、原町市のシンボルとして市民に親しまれてきました。大正12年9月1日に起った関東大震災の時は、その惨状をいち速くアメリカ合衆国のサンフランシスコに打電し全世界を驚かせた話はあまりにも有名である。
 その後、科学技術の著しい発達により昭和8年7月発信を停止。昭和15年無線送信所は廃止となった。
 大正10年3月完成以来「はらまち無線塔」の愛称で親しまれてきた無線送信所主塔も永年の風雪に耐えきれず破損がひどくなり、昭和57年3月惜しまれながら解体された。【原町市教育委員会】


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