米国出身。本名は深澤千代。音楽家・ピアニストの深澤登代吉、たけ子の長女。父は東京音楽学校の第二期卒業生で母も同級。二人は卒業と同時に結婚し、音楽修行の目的で渡米。滞在先のニューヨークでモリノが誕生。その後、一家はカリフォルニア州サンフランシスコに移り、二歳下の妹の美代が誕生。この頃より、両親の夫婦仲が悪くなり、やがて母は夫と幼い姉妹を残して家出した。母が出ていったため一家は帰国。父は富山県や滋賀県などの師範学校や女学校等の臨時の音楽教師をつとめ、全国各地を転々とした。1901(M34)11歳の時に父が病に倒れ亡くなった。姉妹は日本橋のある大問屋に引き取られることになった(叔父の節もある)。御茶の水高等女学校を卒業。在学中よりダンスを習い始める。
'11(M44)21歳の夏、その年の3月に開場した帝国劇場が、8月に歌劇部(のちの洋劇部)を新設し研究生を募集した。周囲の反対を押し切りチャレンジし、応募者400余名のうち、男子8名・女子7名の計15名の合格者に入った。同期には帝劇以後も活動を共にする石井漠、原せい子(高田せい子)、高田雅夫(共に5-1-14-51)夫妻らがいる。帝国劇場歌劇部第一期生として、最初の芸名「澤美千代」と名乗り、同.12 オペラ「カヴァレリア・ルスティーカナ」のコーラス要因として初舞台を踏んだ。なお芸名「澤美千代」は自分の本名の「千代」と、二歳下の妹の「美代」を掛け合わせた名前である。
大正初期は帝国劇場歌劇部の一員として活躍。この頃、歌劇部教師を務めたイタリア人ジョバンニ・ローシーから洋舞の才能を認められ、舞踊家として頭角をあらわしていき、'15(T4)ローシーの勧めで澤モリノと改名。帝劇2期生の岸田辰彌(13-1-5)らも同時期にローシーから指導を受けるなど、ローシーから薫陶を受けた者は多い。帝劇時代の当たり役は喜歌劇「天国と地獄」のキューピッド、夢幻的バレー「猟の女神」の女神ダイアナ、「瀕死の白鳥」である。
この間、'13(T2)23歳の時に帝国劇場管弦楽部で第一バイオリニストの小松三樹三(1890-1921)と結婚する。小松三樹三の兄の小松耕輔はオペラ座の指揮者で、弟の小松平五郎は作曲家、弟の小松清は音楽評論家。子どもにも恵まれ、舞踊家としての才能も目覚め、義両親に助けられながら両立した。しかし、'16.5 帝劇歌劇部は解散。
'17 石井漠らと「東京歌劇座」を結成(途中で七声歌劇団と改称、'18.10 新たにオペラ座を結成)。浅草・日本館で人気を博し、河合澄子と男性ファンの人気を二分した。歌よりも舞踏の方に才能があり、その後は石井漠のオペラ座で舞踏に力を入れる。'20.4 オペラ座解散までの約2年半は浅草のトップスターとして活動。上演された中では「女軍出征」のフランス女士官役が当たり役。
この時期のモリノと澄子は爆発的人気で浅草六区の興行界を席捲し、モリノと澄子のファンは二階左右に分れて、本人が舞台に現れると、熱狂的なファンの声援で歌もセリフもかき消される程であったという。熱狂が異常な人気で、学校をさぼり観劇に来ていた中学生たちが一斉検挙されたり、応援団組織を作り会費を集めて逃げる詐欺事件が起こったり、モリノら女優にプレゼントを贈るために呉服店員が窃盗を働くという事件が新聞社会面を賑わした。なお学生時代の川端康成は澄子ファンとして夢中になっていたことが知られる。
大正時代の元祖スーパーアイドル(後にわが国初の大衆女流舞踏家と称される)な活躍であったモリノであるが、絶頂期の大正六年当時は27歳である。人気を二分した澄子は七つ年下の20歳である。27歳は当時の浅草オペラ界の最年長女優でもあり、かつ人妻で子どももいた(隠してもいなかった)。モリノの魅力は「美人ではないが、小柄な風姿楚々として、観客の快感を唆らずにはおけない魅力」があったと評論されている。なお、'19(T8)「オペラ評論」8月号で行われた歌劇女優人気投票では、「容貌」部門は宝塚の篠原浅芽、「唱声」部門は原信子、「舞踊」部門は澤モリノが第一位に選ばれている。モリノの得票数は2072票で、二位の一條久子と800票差の大差をつけての一位であった。この時、29歳である。
'20.11 オペラ座は組織を一部刷新して舞踊を主体に、石井漠とモリノの二人看板「新舞踊大歌劇オペラ座」として再出発する。新舞踊「ジプシイの生活」は石井漠との二人舞踊で劇団の最大の売りとなった。また後輩の育成にも積極的に取り組んだ。
浅草でモリノは女性洋舞家(クラシックバレエ)の第一人者と見なされていたこともあり「澤モリノ一行」も旗揚げした。名称を歌劇団とするのではなく、澤モリノの名前を一座とするほど、踊る姿を直接鑑賞したいという声が多かったためである。一行は浅草だけでなく、関東大震災後は北海道を除く全国を巡演した。喜歌劇、ミュージカルプレー、歌舞劇を柱に、その間に舞踊・舞踏・ダンス・ボードビルのいずれかを上演するプログラムとし、公演全体が舞踊をメインとした演目とする澤モリノ押しのプログラムで人気を博した。
私生活では不幸に見舞われた。小松三樹三との間に生まれた子どもが幼くして病死。仕事で死目にも逢えなかった。'21 夫も急な病で亡くなる。家族を失った絶望から自殺を図ったこともあったが、やがて、同じ旅回り一座の俳優の森弘(本名は根本弘)と再婚し、四人の子どもを儲けた。しかし旅役者には養うことができず、生まれた子どもは歳月も経たないうちに養子に出した子どももいたという。そして、森はモリノを棄て満州へ行ったとされる。
'30(S5)東京に戻り、浅草六区の玉木座に旗揚げされたレヴュー団「プペ・ダンサント」に参加。そんな折、満州に渡っていた森が急に帰ってきて「大連の方に出演することに決めてきたから頼む」と言い出した。モリノももう一度一旗揚げたいという気持ちもあったため、周囲の反対を押し切り、息子の弘文(同墓)を預け、小規模の一座を組み、'33.3 満州へ渡った。
満州巡業は満州事変の動揺から不入りが続き、仕方がなく一座は朝鮮へと移動。同.5.14から平壌の金千代座で興行を始めることにした。その初日、モリノは得意の「瀕死の白鳥」を踊っている最中に高熱で倒れ、すぐさま宿へ運ばれたが息を引き取った。死因は心臓麻痺、享年43歳。マスコミは舞台上で絶命と大げさに取り上げた。没後、遺骨はしばらく行方不明となる。
'35.9 石井漠が皇軍慰問興行先でモリノの遺骨が奉天にあることを知り、すぐに現地入りし奉天寺の納骨堂でモリノの遺骨を発見した。遺骨は生前モリノが化粧台に掛けていた宿緬花模様の布に包まれ「釋尼宣真女」の戒名が記されていた。帰国後、石井漠とその仲間は生前のモリノを偲び、'36.6 多磨霊園のこの地に納骨した。
<日本芸能人名事典> <「澤モリノの浅草オペラ時代」中野正昭> <「関東大震災後の浅草オペラ」歌劇団の地方巡業と上演された舞踊 すぎやま千鶴>
*墓所には二基。右側にダンサー姿の森の姿が刻む「澤モリノ之墓」、「澤モリノを紀念する會」も刻む。下側に簡略歴が刻まれている。左側に洋型「深澤家」、左面「昭和五十七年七月 深澤たみ 建之」、裏面が墓誌となっており、モリノの息子の深澤弘文(S29.5.24歿)、深澤英雄(S36.7.16歿)、深澤たみ(H20.9.27歿)が刻む。
*石井漠の墓は東京都世田谷区奥沢の浄真寺。この寺には東急創立者の五島慶太、小説家の石川達三、海軍元帥の永野修身、キャノン創業者一族の御手洗毅、馨らの墓もある。
第111回 大正時代の元祖スーパーアイドル 澤モリノ お墓ツアー 大衆女流舞踏家
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