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さかい のぼる

坂井 登

さかい のぼる

1916.7.4(大正5)〜 1942.2.20(昭和17)

昭和期の海軍軍人(大尉)、
ラバウル東方洋上米機動部隊索敵

埋葬場所: 8区 1種 17側

 福井県足羽郡福井豊島中町出身。坂井京松(同墓)の二男として生まれる。福井師範附属小学校、福井中学校に学び、1935.4(S10)海軍兵学校に入り、'38.9.27海軍兵学校(66期)卒業し、少尉候補生となる。少尉に任官し、金剛、鈴谷乗組。鹿島、佐世保の各海軍航空隊に勤務。'40.11.15中尉となり、'41.4横浜航空隊に着任。同.12.8太平洋戦争勃発。
 '42.1横浜航空隊ラバウル派遣隊として基地をラバウル進出し、ニューギニア沖海戦に参戦。同.2.20 早朝、横浜航空隊の九七式飛行艇が索敵のため、ラバウル水上機基地を発進。機長は坂井。ラバウルの東方約400浬の海域に、空母を含む大部隊の発見と報告。その後、敵は空母1隻、巡洋艦4隻、駆逐艦10隻であると付け加えた。敵機動部隊発見の報を受け、特設水上機母艦「聖川丸」の零式三座水上偵察機1機(機長:松井由五郎飛曹長)が接触のため、ラバウル水上機基地を発進。坂井機と共に接触を保ち、攻撃部隊(第四航空隊の九六式陸上攻撃機17機)を米機動部隊に誘導した(ラバウル東方洋上米機動部隊索敵)。しかし、珊瑚海に墜落し戦死。享年25歳。没後、一階級特進し大尉となり、正7位に叙せられた。

<日本海軍士官総覧>
<墓誌より>


墓所 忠烈

*正面和型「坂井家之墓」、裏面は「昭和二十九年三月 坂井一位 建之」。墓所左手に和型「海軍大尉 正七位 勲五等 功四級 坂井登 墓」。左面に「海軍大尉坂井登君墓誌」と題して略歴が刻み、最後に「昭和十八年五月 海軍少将 南郷次郎 識」と刻む。南郷次郎は講道館創始者の嘉納治五郎の甥であり、海軍退役後に講道館2代目官庁を務めた人物。坂井が軍人になった時には既に退役している。接点は不明。墓所右手に海軍大将の長谷川清の筆で『忠烈』と題し、連合艦隊司令長官 山本五十六(7-特-1-2)による「感状 坂井海軍中尉 指揮セル 横濱海軍航空隊飛行艇」と刻み、昭和十七年二月二十日の武勲が刻まれている。裏面は「殉国九勇士 昭和十七年二月二十日」との刻みから、坂井登を筆頭とした9名の階級、勲章、俗名、享年などが刻む。


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