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さいじょう せいべえ

西條清兵衛

さいじょう せいべえ

1881.4(明治14)〜 1930.7.16(昭和5)

実業家(ほてい屋)

埋葬場所: 13区 1種 50側

 富山県上市町出身。青木作蔵の二男。旧姓は青木。旧名は竹次。若齢で志を持ち上京して、四谷伝馬町の布袋屋呉服店に入り、忠実精励によく働き店主が認める人物となる。店主の西條己之助(初代清兵衛)の懇請により三女の千代の婿養子となる。これにより青木姓から西條姓に代え、西條竹次郎とした。
 1910(M43)店主没後、西條家の家督を相続して、布袋屋を受け継ぎ、呉服太物商の経営の重任となる。また名を竹次郎から二代目 西條清兵衛と改名した。事業の傍ら、東京染織会社取締役や、四谷区会議員なども務める。
 関東大震災後の都市開発で急速に栄えた新宿の地に進出して、1926.10(T15) 東京市四谷区新宿三丁目に株式会社ほてい屋を創設(新宿三丁目交差点の北西の角)。本館1400坪、附属建物200坪、地下1階、7階建ての大型店の新宿ほてい屋百貨店を開業し店主となる。
 創業間もなく、'27.3(S2) から発生した昭和金融恐慌の煽りを受けるも、手狭になった店舗の拡大のため、'29(S4)さらに500坪を増設、地下も2階に拡張した。しかし、新宿ほてい屋百貨店は徐々に経営不振に陥る。さらに、'29 アメリカに端を発して世界各国を襲った世界恐慌の煽りを受け、'30.7.16 追い込まれた西條は自死の道を選んだ。大磯で縊死(首吊り)をしたようで死後十日を経過して発見された。享年49歳。急死に伴い、急きょ妻の千代が経営を引き継いだ。
 新宿ほてい屋百貨店はその後も経営難は続くもかろうじて営業を続けていた。そんな折、近い将来のほてい屋の買収を視野に入れ、建物の外観を先に建つ ほてい屋に似せ、各階の床の高さを揃えるといった設計の基、'33 ほてい屋の西隣りに伊勢丹新宿店が創業した。'35 伊勢丹の狙い通り、ほてい屋は伊勢丹に買収され組み込まれる形で消滅した。買収に成功した伊勢丹は、すぐさま店舗を一体化する改装をおこない、'36.3 増築を完成させ現在に至る。

<人事興信録>
<「伊勢丹の歩み」三越伊勢丹ホールディングス>
<碑文より>


墓所

*墓石は和型「西條家遠祖之奥城」、左面「昭和二十九年八月三十日 西條千代 建之」。裏面右は初代清兵衛(西條己之助:M43.12没)から刻みが始まり、右から四番目に二代清兵衛(西條清兵衛)が刻み、右面も続いて墓誌となっている。墓誌には西條己之助と西條清兵衛の子息は清兵衛の長女の絢子ら嫁いだ者以外は全員同墓に眠る。

*西條清兵衛と千代(M29.2-S41.6.10)の間には4男3女を儲けている。長女以外は全員この墓所に眠る。長男は西條泰弘(T7.3-S6.12・13才)、長女は絢子(T9.1-)、二男は泰弘(S7.1.23早死:長男と同じ名前か?)、二女は博子(T13.4.14没)、三男は敏弘(T14.6−H25.11.30)、三男の妻は珠美(H17.2.5没)、三女は智子(R3.11.19没)、四男は信弘(R3.11.27没)。

西條清兵衛氏之像 西條清兵衛氏之像

*墓石の右側に「西條清兵衛氏之像」が建ち、「正三位勲一等 水野錬太郎 書」と刻む。裏面に西條清兵衛の略歴が刻み最後に「昭和七年七月十六日 株式会社ほてい屋顧問 正四位勲三等 白上佑吉」と刻む。また発起人12名、世話人6名の名が刻む。碑文を書した ほていや顧問の白上佑吉は内務官僚として活躍し、実兄は林銑十郎(16-1-3-5)。


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