京都府西宝寺出身。5人兄弟の次男として生まれる。本名は川口譲治。父の川口養之助はサックス奏者であり日本ジャズ界の草分け的存在。
6歳の時に満州に渡る。大連でアメリカ映画『ハリウッド・ホテル』を観て、ジーン・クルーパのドラム・ソロに感激、その日からドラマーを志す。大連実業学校に進学するが二年後、満州飛行学校に転校、パイロットの資格を習得する。
1945(S20)2月、飛行機事故に遭遇するが、奇跡的に九死に一生を得る。
終戦後しばらくの間、大連市内の父親のバンドに席を置き、ダンス・ホール、ソ連司令部などで演奏をする。'47内地に引き揚げた3日後から横浜の米軍クラブに出演。その年の4月に三木トリロー・バンドへ加入しプロデビューをした。
人気に拍車をかけたのはツーベース・ドラム・スタイルを採用し一層の迫カをプレイに盛り込むようになってからで、以後はこのツーベ一ス・ドラムがジョージ川口のトレード・マークとなる。
'53当時のトップスター、松本英彦(ts)、中村八大(p)、小野満(b)とビッグ4を結成し、翌年から始まった文化放送の「トリス・ジャズ・ゲーム」にレギュラー出演。ジャズのブームを巻き起こした。
'55第1回目のリサイタルを浅草国際劇場で開いて以来、ビッグ4のリサイタルはすべて満員盛況であり、5回目のリサイタルを中野サンプラザで開き、その年、日本ジャズ界で最もめざましい功績を残したジャズマンに贈られる南里文雄賞を受賞。
'81ジャズ界では初の芸術選奨文部大臣賞を受賞。'83「ニューポート・クール・ジャズ・フェスティバル」の最終日、カーネギー・ホールにて日本人ただひとり初参加し共演。ニューオリンズ市より名誉市民の称号を贈られる。
'85日本作曲大賞音楽文化賞。渡辺貞夫、山下洋輔、日野皓正ら多くの日本ジャズ界の俊英を発掘し、育てた。これらの功績が買われ、'88ジャズ界から初めて紫綬褒章を受章。'90(H2)音楽生活45周年を記念し「日米ジャズ・バトル」開催。
その5年後には50周年リサイタルをNHKホールにて開催。'97北京・上海・瀋陽にて日中友好のコンサートを行う。同年、勲四等旭日小綬章を叙勲。2003.10.31自宅で倒れる4日前まで演奏活動を行っていた。脳出血のため東京都渋谷区の病院で死去。享年76歳。
口ひげに蝶ネクタイ姿で多くのファンに親しまれ、70歳を超えても爆音を響かせるようなパワフルなドラムで観客を魅了し続けた。石原裕次郎主演映画「嵐を呼ぶ男」のモデルだったともいわれる。
代表的なアルバムに「ザ・ビッグ・フォー」「ジョージ川口プレイズ・ハービー・ハンコック」などがある。二男の川口雷二氏もドラマーとして活動している。