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のざき ひろた

野崎広太

のざき ひろた

1859.6.19(安政6)〜 1941.12.2(昭和16)

明治・大正・昭和期の出版人、実業家、茶人

埋葬場所: 11区 1種 6側

 岡山市平野出身。幼名兵三。諱は通礼。筆名汲古庵主。幻庵と号す。
 賀陽郡平野村(現岡山市平野)で庭瀬藩士(のち酒造業)野崎通種・麻佐の長男に生まれる。1881(M14)平野村戸長とたるが、翌年父の死後、退職して上京。同年、三井物産から商況社に発行母体が変わった「中外物価新報」(1889、中外商業新報に改題、現日本経済新聞)の編集にかかわる。 '85(M18)当時、岡山県出身の木村清四郎〔のち社長〕(11-1-5-1)の下で中堅記者として活躍。'91(M24)濃尾地震では特派員として経済的影響を連載して注目を集める。この間、'83(M16)慶応義塾に入り、福沢諭吉の門下生となる。'98(M31)主幹兼社長に就任。 1905(M38)経営難から合資会社商況社を解散、広太の個人事業として経営を承継する。以後、多彩な紙面展開で経営を建て直し、経済界の羅針盤としての重責を果たす。'11(M44)株式会社中外商業新報社に改組、取締役社長となる。 '15(T4)社長を辞し、専務取締役を兼務していた三越呉服店(のちの百貨店三越)社長に転じ、'18(T7)まで務める。その後三越・瀬戸鉱山各取締役、鐘淵紡績監査役など歴任。関東の実業界に重きをなし、政界にも隠然たる影響力をもった。
 茶道に造詣が深く、'06〜'27(M39〜S2)中外商業新聞に茶会の記事を書き続け、『茶会漫録』12冊にして発刊、茶道興隆に影響を与えた。書道、陶器にも秀でた。'41(S16)郷里の吉備国民学校へ幻庵文庫として784冊の本を寄付している。 60歳から移り住んだ小田原の別荘で死去。享年83歳。岡山市西花尻にある墓所が正墓。戒名は幽幻院自證居士。幻庵。松永記念館に茶室「葉雨庵」が残る。

<岡山県歴史人物事典>
<五輪塔様より情報提供>


*多磨霊園の墓石の前面に「幽幻院自證居士」の戒名が刻む。墓誌もあり、野崎廣太の名前が刻む。

*茶室「葉雨庵」は小田原市板橋の松永記念館内にあり、一般も申し込めば利用可能です。 すぐ近くに山県有朋や大倉喜八郎の別荘もあり、すべて一般に公開されています


野崎世以 のざき せい
 三越呉服店取締役社長野崎広大の妻。昨夏来腎臓炎に罷り治療中、脳溢血を起こし大正五年一一月七日逝去。 明治七年一一月生まれ。茨城県士族旧公卿中山忠能の家臣河村春司長女。

<大正過去帳>


*世以の没年は墓誌には11月5日歿と刻む。


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