岡山市平野出身。幼名兵三。諱は通礼。筆名汲古庵主。幻庵と号す。
賀陽郡平野村(現岡山市平野)で庭瀬藩士(のち酒造業)野崎通種・麻佐の長男に生まれる。1881(M14)平野村戸長とたるが、翌年父の死後、退職して上京。同年、三井物産から商況社に発行母体が変わった「中外物価新報」(1889、中外商業新報に改題、現日本経済新聞)の編集にかかわる。
'85(M18)当時、岡山県出身の木村清四郎〔のち社長〕(11-1-5-1)の下で中堅記者として活躍。'91(M24)濃尾地震では特派員として経済的影響を連載して注目を集める。この間、'83(M16)慶応義塾に入り、福沢諭吉の門下生となる。'98(M31)主幹兼社長に就任。
1905(M38)経営難から合資会社商況社を解散、広太の個人事業として経営を承継する。以後、多彩な紙面展開で経営を建て直し、経済界の羅針盤としての重責を果たす。'11(M44)株式会社中外商業新報社に改組、取締役社長となる。
'15(T4)社長を辞し、専務取締役を兼務していた三越呉服店(のちの百貨店三越)社長に転じ、'18(T7)まで務める。その後三越・瀬戸鉱山各取締役、鐘淵紡績監査役など歴任。関東の実業界に重きをなし、政界にも隠然たる影響力をもった。
茶道に造詣が深く、'06〜'27(M39〜S2)中外商業新聞に茶会の記事を書き続け、『茶会漫録』12冊にして発刊、茶道興隆に影響を与えた。書道、陶器にも秀でた。'41(S16)郷里の吉備国民学校へ幻庵文庫として784冊の本を寄付している。
60歳から移り住んだ小田原の別荘で死去。享年83歳。岡山市西花尻にある墓所が正墓。戒名は幽幻院自證居士。幻庵。松永記念館に茶室「葉雨庵」が残る。