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のだ さだお

野田貞雄

のだ さだお

1892.1.12(明治25)〜 1945.6.21(昭和20)

大正・昭和期の教育者、ひめゆり決死部隊編成者

埋葬場所: 26区 1種 26側

 熊本県出身。東京高師同専攻科卒業後、京都・岡山の高等女学校教授、岡山県視学官・茨城女校長を経て、1943(S18)沖縄師範学校長となる。 45年3月米軍が沖縄に上陸するや、職員生徒により鉄血勤皇隊(男子)・ひめゆり部隊(女子)を編成し、軍の作戦に従う。 沖縄敗戦を迎える6月19日残った職員生徒を集めて、その方をねぎらい、死を急がず生き永らえよと論じ、翌20日米軍の猛烈な艦砲射撃を受け戦死した。享年53歳。 明朗、豪放、且つ温情溢れる性格は生徒からの慈父と仰がれ、教育者の鑑として文部大臣の表彰を受け、健児の塔・ひめゆりの塔に祀られる。

<墓誌より>
<仲村顕様より情報提供>


碑


沖縄師範健児之塔
 所 在 地 : 沖縄県糸満市字摩文仁
 建立年月日 : 昭和21年3月
 合 祀 柱 数 : 307柱
 設置管理者 : 沖縄師範健児之塔遺族会

 糸満市摩文仁丘にあって、沖縄師範学校の野田貞雄校長以下、17名の職員と、生徒289名、計307名を祀ってある。
 沖縄師範学校全生徒に、昭和20年3月31日、召集令が下り、 同日夕刻予科2年より本科3年までの386余名の生徒は鉄血勤王隊を編成し、 本部、切込隊、千早隊、野戦築城隊、特別編成中隊を組織して、4月1日より軍の作戦に参加した。 最初は軍と共に首里戦線で活動したが、5月下旬より戦況不利になったので司令官とともに南部地区へ移動し、 最後にこの摩文仁の壕まで退却した。
 6月19日、解散命令の出たあと敵軍に斬り込む者、この壕内で自決する者など、多くの犠牲者を出した。
終戦後、生存者及び龍潭同窓会員の寄附によってこの塔ができた。



  健児の歌
 南の巌のはてまで守り来て
   散りし龍の児雲まきのぼる    (仲宗根政善 作)


師範健児之塔 名簿


【ひめゆり決死部隊編成者】
「ひめゆり決死部隊編成者」は本来「ひめゆり学徒隊編成者」というのが正しい。 県外の多くの文献に「ひめゆり決死部隊編成者」と記述がされていますが、「決死部隊」という表現や「部隊」は事実関係からみて良い呼称ではない。彼女らは編成時に死を決していたわけでなく、なにより軍人ではなく、学徒という事実を反映させたほうが良い。 通常沖縄では、こと遺族およびひめゆり平和資料館では「学徒隊」と表現している。 説明文中に登場する「ひめゆり部隊」の表記は、墓誌からの引用であるためそのまま使用した。

<仲村顕様より情報提供>


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