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にしおおえだ さとる

西大條 覚

にしおおえだ さとる

1880.2.16(明治13)〜 1945.3.14(昭和20)

明治・大正・昭和期の水道技師、近代水道の設計者

埋葬場所: 10区 1種 8側 1番

 宮城県出身。宮城県教育界に尽された教育家の西大條規(同墓)の長男として生まれる。旧漢字は覺。西大條を「西大条」と表記するものもある。西大條家12代目。外弟(異母弟)の西大條胖は陸軍中将。
 1905(M38)東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。東京市に入り、水道課で技手となる。水道浄水場などに勤務した後、'13(T2)から1年間、水道施設の調査と実況視察のため欧米各国へ出張。
 '18 臨時水道拡張課長に就任。その後、内務省都市計画地方委員会および都市計画中央委員会に移籍。'22 管制改正により専任の内務技師、'23 都市計画局第一技術課長、同年、鉄道省鉄道技師を兼任した。'25 本官および兼官を辞した。宮内省内匠寮、内務省都市計画課の嘱託。'25〜'28(S3)まで東京府荒玉水道町村組合技師長を務め、野方配水塔の施工などや同組合の水道施設施工などに尽力。
 その後は水道関連施設の技術顧問として、各地の技術指導に当たる。半田、岐阜、岡崎、豊橋、など愛知県や栃木県各地と、山梨県甲府の各市をはじめ、玉川水道会社、大船田園都市株式会社、さらには南洋庁の都市計画と水道施設などにも関わった。工学博士。享年65歳。

<土木人物事典>
<人事興信録など>


*墓石は和型「西大條家墓」。左側に墓誌が建つ。墓誌には西大條家累代の墓所は先代正宗山瑞鳳寺に在り、十一代含翠翁 規 以降、この多磨霊園の墓所に葬る旨が刻む。戒名は大乗院覺道玄智居士。妻(後妻)はサタ(S40.4.2没)。

*父の西大條規(にしおおえだ のり:1853.5-1936.12.26)は号を含翠といい、佐沼小学校校長や、登米郡小学督業などを務めた教育家で、公愛会では民権校長として刑法を講義した。『尋常小学教授法』を共著。「含翠西大条規先生伝」(1930)も出されている。西大條家の11代目。なお、西大條覚が12代目であり、長男の西大條隆(1918.8-1994.1.23:同墓)が13代目。

*娘の文子は機械工学者の徳江徳(2-1-10)に嫁いだ。西大條覚の前妻であり文子の実母は、西大條花子であり、28歳の若さで没している。徳江家の墓所内の墓誌の裏面には「西大條花子納骨の記」とあり、1979.4.11西大條花子の遺骨をこの地に改葬した旨が刻む。よって、西大條の墓誌には花子の刻みはない。


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