メイン » » » 西尾忠久
にしお ただひさ

西尾忠久

にしお ただひさ

1930.6.9(昭和5)〜 2012.7.28(平成24)

昭和・平成期のコピーライター、
広告プロデューサー

埋葬場所: 22区 1種 6の2側(宿谷家)

 鳥取県鳥取市出身。義父は中国との友好に努めた政治家の宿谷栄一(同墓)。宿谷栄一の娘の宗子と結婚。宗子の兄にテレビ界で活躍した実業家の宿谷高彦(同墓)がいる。
 関西大学経済学部在学中に、谷沢永一主宰の同人誌『えんぴつ』に開高健らと参加。またコピーライターが広告文案家と呼ばれていた時代に、三洋電機のPR誌ハウスオーガンの文筆家として入社。宣伝部では家電向けPR誌の編集を担当。黎明期の広告業界において、当時アメリカで主流になりつつあったクリエイティブ手法、クリエイティブシーンを切り拓いた。蟻田善造、梶祐輔と共に日本デザインセンターのコピーライティングのチーフに就任。1964(S39)広告制作プロダクション、 アド・エンジニアーズ・オブ・トーキョーを設立し社長に就任(〜'69)。
 有名なDDBのフォルクスワーゲンのプロモーションをはじめ、アメリカのクリエイティブシーンを紹介しながら、その手法を取り入れた広告を制作。コンセプトからマーケティングまで、現代では当たり前となっている概念を、当時未開拓であった日本の広告業界にもたらしたコピーライターの草分けの一人。
 '69.7.21アポロ11号が人類初の月面到達を果たした翌日の全国紙に富士銀行の広告「お子さまのためにきょうの新聞を保存しておいてあげましょう。」とコピーした。'70 東急エージェンシーの本社が赤坂に移った際に「赤坂4丁目8番」をコピーした。このアイデアはクライアントがタクシーで会社に訪ねてくる時に、豊川稲荷の向かいというのがいいか、虎屋の下というのがいいか、赤坂4丁目8番というのがいいかと問い、街の目印となるように地番を掲げ、コミュニケーションを手伝うことによって、地域社会に貢献する。それが「赤坂4丁目8番」の看板のコンセプトと社長に説得した逸話がある。
 アド・エンジニアーズ社顧問の傍ら、多摩美術大学で広告コンセプトの概論の講義を40年近くに渡り講義した。'76 TBSテレビ「ほんもの談義」の司会も務めた。東京コピーライターズクラブ(TCC)の創設にかかわり、2003(H15)日本の広告しに大きな功績を果たしたことから名誉殿堂入りを果たす。
 『効果的なコピー作法』『企画のお手本』など、世界の広告理論や技法コピーライター、マーケティングの書籍を数多く出版する傍ら、好奇心旺盛とこだわりが強く、気になることは徹底的に調べる性格から、雑学本から一流ブランド商品、食べ物、旅行の案内本まで幅広く刊行している。例えば、'68『ボルボ‐スウェーデンの雪と悪路が生んだ名車』は、車のボルボが気になり、何がスゴイのかを知るためにスウェーデンの本社まで調べに行って本にした作品である。他にも、'75『世界の有名品 持つことのすすめ知ることの楽しみ』、'77『知的な女性のためのエレガンス商品学』、'79『香港ショッピング案内 ひとりで歩く人のために』、'82『江戸・老舗さんぽ』、『ヴィトン読本』、'85『ワープロ書斎術』、'88『ミステリー風味ロンドン案内』など。晩年は、池波正太郎の『鬼平犯科帳』をこよなく愛し徹底的に研究した。編著・翻訳を合わせると70冊以上の本を出版した。 食道がんにより逝去。享年82歳。

<講談社日本人名大辞典>
<著者略歴や各紙訃報記事など>


墓所 墓誌

*墓石は洋型「宿谷家之墓」、裏面「昭和四十年六月吉日建之 栄一 書」。墓所左側に宿谷家墓誌があり、宿谷栄一や宿谷高彦らが刻む。墓所右側には西尾家の墓碑が建つ。裏面は「西尾家先祖代々之霊」と刻み、西尾宗子建立と刻む。西尾忠久の妻の宗子(むねこ)の父が宿谷栄一である。裏面墓誌には忠久と宗子の息子で高校生の時(16才)に自死した西尾幹(S47.1.10歿)から刻む。有賀美智江も眠る。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・な | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。