東京出身。西尾清一・ミヨ(共に同墓)の長男。東京工業大学卒業後、鉄道省に入省。兵役でシンガポールやフィリピンを転戦し、苦難の末に復員。
1946(S21)疎開先の札幌の苗穂工機部(工場)を皮切りに、郡山工機部(工場)、大宮工場、静岡鉄道管理局機関車主幹、本社運転局車務課、技師長室、工作局車両課総括補佐を歴任。その後、十河総裁、島秀雄(15-1-2-15)技師長のもと新幹線総局で計画審議室調査役として開業を前にした東海道新幹線の車輌開発に携わった。
静岡鉄道管理局時代には当時東海道で運用されていたEF57の上越線への転用を起案、本社運転局時代にはEF13の車体載せ替えやC54の延命(装備改造)の予算付けなど、その後の鉄道趣味の動向にも大きく影響する采配を揮った。'65多度津工場長を最後に国鉄を辞す。その後は、帝国車輌(東急車輛大阪)取締役、社団法人日本鉄道技術協会専務理事を務めた。常にわが国の鉄道車輌開発の最先端を歩んだ。また早くからLRT(ライトレールトランジット:次世代型路面電車システム)の可能性に注目し、その開発にも尽力した。
鉄道趣味人としても幅広く活躍され、戦後直後から機関車同好会同人として機関誌『MIKADO』に執筆、その後は記名記事のほか“椎野剛一”のペンネームで多くの記事・写真を発表。さらに鉄道友の会や海外鉄道研究会、日本路面電車同好会などで後進の育成に積極的に取り組んだ。主な著書に『世界の鉄道』『日本の鉄道』『新幹線の旅』『1号機関車から超特急電車まで』、監修『写真で見る鉄道車両100年』などがある。享年87歳。没翌年.3.29 東京・高田馬場駅前の“BIG BOX”9階のバンケットルームで「西尾源太郎さんをしのび 汽車を語る会」が開かれ、全国から故人と親交の深かった100名近い趣味人が集まった。