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にしむら しんじ

西村眞次

にしむら しんじ

1879.3.30(明治12)〜 1943.5.27(昭和18)

大正・昭和期の歴史学者、文化人類学者

埋葬場所: 9区 1種 20側

 三重県宇治山田市(伊勢市)出身。西村九三・のぶ子の二男。号を酔夢。尋常小学校卒業後、大阪で仕事をしながら中等教育を勉学。 少年・青年雑誌に多くの投稿文が採用され、『少年文集』『中学世界』などに掲載される。上京し、新声社(新潮社の前身)や博文館で編集業務に従事。
 1903(M36)東京専門学校(早稲田大学)文学部に入学し、坪内逍遙に師事。'05大学卒業し、兵役に就き日露戦争に応召し中国戦線に出征。 除隊後、従軍経験を執筆し『血汗』を発表するなど作家として活動。'07東京朝日新聞社の記者を経て、'09冨山房に入社し、大町桂月の雑誌『学生』の編集者として関係した。
 '18(T7)母校の早稲田大学文学部講師に招かれ、日本史や人類学を講じ、28(S3)史学科主任教授となり早稲田史学科の基礎をつくった。また、早稲田大学第一高等学院でも日本史の講座を担当。
 多くの文化史関係の著書がある。主な著書には『日本古代船舶の形式』(1923)、『文化人類学』(1924)、『日本古代社会』(1928)、『人類学汎論』(1929)、『日本文化史概論』(1930)、『世界古代文化史}(1931)、『小野梓伝』(1935)、『大東亜共栄圏』(1942)、『南方民族誌』(1942)など多数。 なお、'32(S7)、『皮船』その他の業績に対して文学博士号が授与された。
 晩年は、戦時色が強くなる中で、西村眞次の学問も自由主義的であると弾圧を受け、'41『国民の日本史 大和時代』『日本古代社会』『日本文化史概論』の3冊が発禁処分を受けた。享年63歳。

<コンサイス日本人名事典など>


墓所 西村家奥津城

*墓所には二基建つ。左から和型「西村家奥津城」、裏面「昭和三十七年三月 西村朝日太郎 建之」。右に和型「文学博士 西村眞次 墓」、裏面「昭和十八年五月二十七日逝去 享年六十五」と刻む。その右側に墓誌が建つ。妻は照子。長女は琉球石油創業者・政治家の稲嶺一郎に嫁ぎ、子は沖縄県知事を務めた稲嶺惠一。長男の西村朝日太郎(同墓)は文化人類学者、民族学者。孫の西村幸祐はジャーナリスト・評論家。


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