東京牛込出身。父は歴史学者・文化人類学者の西村眞次(同墓)。出生した時に父が朝日新聞に勤めていたことから「朝日太郎」と命名される。号は跳白亭濤如。西村濤如(にしむら とうじょ)の筆名もある。甥に沖縄県知事を務めた稲嶺惠一やジャーナリスト・評論家の西村幸祐がいる。
1939(S14)早稲田大学文学部西洋史学科卒業。人類学を専攻し、卒業後は東亜研究所所員となる。日本民族学会付属研究所研究員などをへて、'46 母校の早稲田大学で講師を務める傍ら、国立国会図書館創立事務に携わる。'53 日本民族協会常任理事。
'54 早稲田大学教授。東南アジアを中心に漁労文化や海洋文化の調査研究を行う。'57.11 タイのバンコクで開催された第9回太平洋学術会議に出席。'60 日本民俗学協会第二次東南アジア稲作文化調査団の一員として、インドネシアのジャワ島東部の漁村で学術研究調査を行った。'63 渋沢敬三死去に伴い九学会連合会長に就任。'66.2 半年間、アメリカのセントルイス・ワシントン大学客員教授を務める。'67 海洋民族学研究会を設立し会長に就任。「海洋人類学」の提唱者として活躍した。'68 第8回国際人類学民族学会議で民族理論部会座長を務めた。
'80 早稲田大学を停年退官し名誉教授。その後、東海大学特任教授となった。著書に『馬来編年史研究』(1941)、『葡萄牙領チモール概観』(1942)、『文化人類学論攷』(1959)、『人類学的文化像:貫削木と聖庇の基礎的研究』(1960)、『海洋民族学:陸の文化から海の文化へ』(1974)、『歴史的文化像』(1980)など多数。訳書に『文明の起源』『スマトラの民族』などもある。
父の眞次が多くの門下生を輩出したが、朝日太郎はあまり門下生をとらず、単位認定も厳しく学生たちから「カフカ(可不可)先生」と呼ばれた。その少数の門下生からも安倍与志雄、岸上伸啓、岩淵聡文、木山英明、下田直春、高桑守史、高桑史子、畑中幸子、矢野敬生らの教え子が研究室から巣立った。また、後に総理大臣となる早稲田大学学生時代の小渕恵三から政治家を目指す上で海外視察等の相談を受けた際に、最初に行くべきところを当時アメリカの統治下にあった沖縄を勧め、姉の夫である稲嶺一郎を紹介した。小渕恵三が終生沖縄に強い思いを寄せ、総理大臣のときに沖縄サミット開催を実現させた背景の原点はここにあるといわれている。
正3位 勲3等。享年87歳。没後、遺族より早稲田大学に、西村眞次と西村朝日太郎の4000点余りの文書(講義ノート、日記、スケッチ、調査記録、書籍類など)が寄贈され、展示公開された。