会津若松(福島県会津若松市)出身。会津藩士の子。初名は香川留吉。号を成堂。12歳の時に戊辰戦争が勃発し、兄たちを戦いで失い、3男の身で家を継ぐことになった。会津藩は幕府側として参加するも敗れ領地を没収されるが、藩主の松平容大の家名存続が許され斗南藩となる。
この頃、役人試験に合格し、16歳の時に斗南藩若松出張所書記となる。1875(M8)若松県に斗南藩の出張所があった関係から、若松県津川支庁詰を命ぜられた。翌年、久子を妻に迎える。
1877福島県会開催議員に選ばれ、その後は福島県庁、栃木県足利郡長、樺山郡長を歴任した。この時、足利地方の足利機織(はたおり)業界の不渡りにより起きた銀行貸し出し停止によって一般の取引まで不能に陥った騒動において、善後策を練り、新たに三井銀行支店を設けて、資金を融通するよう各方面の説得に奔走し経済パニックを沈静化させた。また『福島県会沿革誌』の編纂や、足利学校遺跡の保存に尽力。1888磐梯山噴火の現地調査報告の功により警視庁に抜擢された。1897足尾鉱毒事件では明治天皇に直訴した田中正造が郡長を務めていた西にも直訴してきた際に、救護策出したとされる。
1898北海道の檜山支庁長を経て、1901浦河支庁長に着任。浦河支庁長時代の最大の業績は国営日高種馬牧場の浦河設置であり、浦河着任の翌年には日高管内の実業家を集め、日高実業協会を創設して農商務大臣へ国営種馬牧場の浦河設置を上請し、種馬牧場開設のための陸路整備を訴え整備を進めた。当時は日露戦争で国費大緊縮の中、戦時に必要な軍馬の必要性を説き伏せ、馬産地である日高の交通を完備することこそ勝敗を決する鍵となると力説し、ついに巨額な国費を獲得した。これにより新冠御料牧場、日高種馬牧場の設置に尽力。産業振興及びインフラ整備を進め、農林水産業の発展させると同時に、教育の充実にも注力し浦河町内に5校の小学校を新設。日高民心の啓発につとめ、日高の物質的精神文化に貢献した。
1909小樽支庁長に転ずる。'16(T5)臨時帝室編集局嘱託に就任し、『明治天皇紀』の編集に携わる。'32(S7)「至誠一貫の人」と讃え慕う日高の人々によって、生存中にもかかわらず浦河神社境内に「生祠西霊社(後に西神社に改称、更に西舎神社に遷座) が創建された。更に浦河役場荻伏支所前に銅像、潮見ヶ丘に忠義翁頒徳碑が建立された。享年78歳。