東京出身。高等女学校の時、東京女子大学卒業の先生の魅力にひかれ、女子大の高等学部へ進学を決意し受験勉強をした。1942〜'43東京女子大学高等学部在学。しかし、根岸朝雄(同墓)と結婚のため中退。翌年、台湾沖航空戦にて夫が戦死、息子が誕生、そして終戦。その後、女手一人で子息を育てた。
戦後、'46.4東京女子大学数学科へ再入学し、'49.3卒業。卒業後1年間同校の研究助手を務める。'50.4〜'53.3大阪大学理学部数学科(旧制)に在籍し、'55.4東京女子大学数学研究室助手に就任。
'57.4東京女子大学専任講師となり、'60.10〜'62.7米国シカゴ大学大学院に留学、'63.4東京女子大学文理学部助教授、'71.4教授となった。専門は幾何学。特に代数的位相幾何学、多様体論を中心として研究を深めた。また、教育者として幾何学以外にも、数学教育、測量にまで及んだ。
大学では学生部長、宗教部長、長期計画検討委員長、留学生委員長、評議員、評議会委員、審議会委員、大学セミナーハウス企画委員、同共同セミナー副委員長、同大学教員懇談会企画委員、大学婦人協会理事(国外奨学委員長)、日本私立大学連盟広報委員などを務めた。
女性学についての深い関心と理解を示し、'90(H2)開設された女性学研究所初代所長に就任した。研究所のプロジェクト研究として、「数学教育における性差について」の研究が根岸愛子を中心として続けられ、現在も引き継がれている。
'90京都で開催された国際数学者会議での「数学にいける女性の地位」についてのパネルディスカッションでは日本代表のパネラーとして活躍した。'93.3(H5)停年退官となり、名誉教授。東京女子大学一筋在職38年。
その後は、ボランティアとしてCMCCで心のケアの仕事を12年間務める。クリスチャンとして学外でも活躍し、キリスト教学校教育同盟広報委員、キリスト者遺族の会実行委員などを務めた。享年87歳。
<「根岸愛子先生に感謝を捧げて」高村多賀子> <いま、こころのケアを大切に(根岸愛子講演要旨)>
*墓石は和型「根岸氏之墓」。右面に「昭和二十二年四月 墓域改修建之 根岸莞爾」と刻む。墓石を挟んで左右に墓誌がある。根岸愛子は右側の墓誌で、墓誌には東京女子大学名誉教授とも刻まれている。なお、夫の根岸朝雄は左側の墓誌に刻む。
※旧姓が不明です。
根岸朝雄 ねぎし あさお
1916(大正5)〜 1944.10.12(昭和19)
昭和期の海軍軍人(少佐)
東京出身。陸軍主計少将の根岸莞爾の次男として生まれる。府立六中を経て、1938.3.16(S13)海軍兵学校卒業(65期)。同期に九軍神の一人の岩佐直治、徳川慶喜の孫(9男の誠の息子)の徳川熙、戦後自衛隊海将となる石隈辰彦らがいた。
'41大尉の時に真珠湾攻撃に参戦。村田重治少佐指揮の第一集団特別攻撃隊雷撃機九七式艦上攻撃機40機の赤城・第一攻撃隊、第5中隊、第48小隊隊長として出撃。
'43愛子と結婚。子供の顔を見ることが叶わず、'44.10.12台湾沖航空戦(攻406)で戦死した。享年28歳。この戦いでは、日本側航空部隊は400機以上の飛行機を喪失した絶望的な損害を受けた。没後特進し海軍少佐。
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