東京出身。備後国出身の楢崎一時(同墓)の長男として生まれる。 1933.3(S8)慶應義塾大学医学部卒業。卒業後、同大学小児科学教室において研究中、支那事変に際して応召され、出征。北支南口鎮の戦闘より内長城線を越え、険峻なる発達嶺を突破し、張家口代州に進み、更に太原攻略のための軍の右翼隊として原平鎮池上村の各戦闘を経壮絶なる敵前渡河を敢行し千五百二十米高地忻口鎮の敵太部隊に封峠して勇戦激闘、遂に壮烈なる戦死を遂げたり。正7位 勲6等 功5級。医学士。享年30歳。最終階級は陸軍軍医大尉。
<碑より>
*墓石は和型「楢崎家之墓」、裏面「昭和十三年十月建之 楢崎一時」。左に墓誌、父の楢崎一時(S23.10.19歿・行年70才)から刻みが始まり、母のせき(S34.3.15歿・行年79才)。次に楢崎俊一が刻む。戒名は廣濟院義貫俊英居士。右に林銑十郎の書よる題字「忠烈」と刻む「楢崎俊一碑」が建つ。碑には楢崎俊一の略歴が刻み、最後に「昭和十四年十月建之 / 陸軍大将 林銑十郎 題字 / 慶應義塾大学医学部長 北島多一 撰文 / 冨谷瑞穂 謹書」。
林 銑十郎