メイン » » » 中島秋圃
なかしま しゅうほ

中島秋圃

なかしま しゅうほ

1878.7.5(明治11)〜 1961.11.30(昭和36)

明治・大正・昭和期の教育者、日本画家

埋葬場所: 21区 2種 9側 1番

 東京四谷出身。大蔵省・司法省の官僚の中島盛有、與彌子の長男。本名は次郎。妹のフクの夫は乾漆工芸家・彫刻家の細谷而楽。
 1902(M35)東京美術学校日本学科卒業。川端玉章に師事し円山派を学んだ。卒業後、富山県高岡市の県立工芸高校(富山県立高岡工芸高等学校)の美術教諭になる。県立工芸高校創立に関わった徳久恒範知事と初代校長をつとめた納富介次郎がともに佐賀出身であり、納富校長は在任3年であったが、退任後も佐賀人脈により多くのすぐれた人材が同校の教師に招かれていた。その関連で、佐賀出身の官僚の中島盛有の息子であり、美大卒業生の秋圃が知られるようになり、佐賀出身の大隈重信から3年間だけでも高岡で教えてくれないかと頼まれ赴任することになったという経緯がある。
 '02 富山県立工芸高校教諭に着任。当初は3年間の予定であったが、'27(S2)までの25年間教壇に立ち、富山県の美術、工芸において大きな足跡を残すことになった。
 教育者の傍ら、約60年に渡り四条派の日本画として書き続けていたが、「絵画は人格教養の反映であり、優劣を争うものではない」との考えから展覧会には作品を出さなかった。その代わり、絵画研究会「をばな会」を主宰し、清新な画法と独自の教授法をもって生徒の絵画指導に努め、多くの門下生を輩出した。
 作風はきらびやかな色使いと、余白を生かした構図が特徴であり、事物を明確な輪郭線を用いず色調の濃淡によって表現する朦朧体(付立)を駆使し、写実と心象風景からなる作品を多く残した。代表作は『梅に小禽の図』(屏風 2曲1隻 高岡市美術館 所蔵)、『雨晴二上山図』(建具)などがある。
 '34(S9)富山県立高岡工芸高等学校の学校創立60年と、秋圃の喜寿を記念して、学校の前庭に中島秋圃胸像が建てられた。胸像の「正に典型的芸術教育者というべき哉」と教え子の濱谷白雨が撰文をしている。享年83歳。

<富山県大百科事典>
<UAG美術家研究所
「富山県立工芸学校で日本画の教官を長年つとめた中島秋圃」>


墓所 墓所

*墓所には三基並ぶ。真ん中の大きな墓石は和型「正五位 勲六等 中島盛有之墓」、裏面に略歴がびっしりと刻み、この墓誌碑は次郎の謹撰であること、書は武田實頴である旨が最後に刻む。右側の墓石は和型「中島與禰子之墓」、左面「中島盛有妻 行年四十三歳」、裏面「明治三十二年七月三日歿」。左側の墓石は和型「中島家之墓」、裏面「昭和十二年十一月建之」。墓所右側に墓誌が建ち、5歳で早死した中島千代(M19.7.30歿)の刻みから始まり、次に中島次郎(中島秋圃)が刻む。戒名は文徳院大道秋圃居士。次郎の妻の中島こま(S44.1.26歿・行年87歳)、長女の久栄の夫で日本画家の中島悌(S62.6.29歿・行年87)、長女の中島久栄(H8.8.2没・行年92歳)が刻む。

*曾孫には上杉靖吾(洋画家)、谷村秀(デザイナー)がいる。

*2005.10.12(H17)「百武兼行の油絵発見」という記事が北日本新聞に掲載された。百武兼行(1842-1884)が佐賀県出身の日本洋画界の先駆者と称される人物。記事によると、1879(M12)百武兼行がパリで制作した油画が、富山県立近代美術館の調査により富山県高岡市在住の中島盛有の子孫宅で見つかったとのこと。見つかったのは少女の顔をキャンバスに描いた40×32.5センチの作品。最高傑作とされる『マンドリンを持つ少女』や『ブルガリアの女』と同じ年に、同じモデルを描いたとみられる。百武兼行と中島盛有は旧佐賀藩主側近であり、二人は同時期にイギリスに留学していた。その時に百武兼行が中島盛有に友情の証として贈ったものと考えられている。盛有の長男の中島秋圃が父の形見として譲り受け、富山県工芸高校(富山県立高岡工芸高等学校)の日本画教師として赴任したため、作品が高岡に伝わった。この発見は「洋画が日本に入ってきた最初の経緯を示す美術史的な財産」であり、「明治時代の画家の努力の跡がうかがえ、縁者が大事に保管していたことは文化史的にもありがたい」という研究者の声が添えられていた。なお百武兼行の墓は佐賀県佐賀市与賀町にある「浄土寺」。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・な | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。