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なかしま もりあり

中島盛有

なかしま もりあり

1841(天保12.8.16)〜 1888.9.19(明治21)

明治期の大蔵省官僚、司法省官僚

埋葬場所: 21区 2種 9側 1番

 肥前国佐賀郡(佐賀県佐賀市)出身。佐賀藩士の子として生まれる。通称名は藤次郎。7歳の時より水江(佐賀市水ヶ江)の藩校で漢学を学ぶ。佐賀の七賢人の一人である閑叟(かんそう)こと鍋島直正(肥前佐賀藩10代藩主)の記録取立方として仕えながら、中学指南も兼務した。
 1868(M1)明治維新となり、2年間、四方(至る所)を遊歴し、東京昌平校(昌平坂学問所)に入る。抜擢されて本校の教授試補 兼 副舎長となる。その後、大蔵省の古澤滋がマカオの外交の際に筆記を務める。また口授作(口伝)、経済、小説、英国会社の譯述(翻訳)編集などを行う。1870 工部省出仕となり、命により譯官通辯(通訳官)になるために英国に渡り、英学を修める。1872 七等出仕になる。1873 帰朝。
 大蔵省に出仕し、国債寮、1875 紙幣寮、1876 紙幣助になり、経済書講述なども兼ねた。従6位を叙す。1878 大蔵省書記官に就任。1880 太政官少書記官を経て、大蔵権大書記官を務めた。1881離職。正6位。1883 勲6等を叙勲。
 司法省に転じ、1884 福島始審裁判所長に着任。1885 東京控訴裁判所、 1886 司法省の検事となる。従5位を叙す。1887 非職。1888.2 特者をもって正5位を賜る。同.9.19 病により逝去。享年47歳。

<墓誌碑より>


墓所 墓所

*墓所には三基並ぶ。真ん中の大きな墓石は和型「正五位 勲六等 中島盛有之墓」、裏面に略歴がびっしりと刻み(上記紹介文章)、この墓誌碑は次郎の謹撰であること、書は武田實頴である旨が最後に刻む。右側の墓石は和型「中島與禰子之墓」、左面「中島盛有妻 行年四十三歳」、裏面「明治三十二年七月三日歿」。左側の墓石は和型「中島家之墓」、裏面「昭和十二年十一月建之」。墓所右側に墓誌が建ち、5歳で早死した中島千代(M19.7.30歿)の刻みから始まり、次に中島次郎(中島秋圃)が刻む。戒名は文徳院大道秋圃居士。次郎の妻の中島こま(S44.1.26歿・行年87歳)、長女の久栄の夫で日本画家の中島悌(S62.6.29歿・行年87)、長女の中島久栄(H8.8.2没・行年92歳)が刻む。

*玄孫には上杉靖吾(洋画家)、谷村秀(デザイナー)がいる。

*2005.10.12(H17)「百武兼行の油絵発見」という記事が北日本新聞に掲載された。百武兼行(1842-1884)が佐賀県出身の日本洋画界の先駆者と称される人物。記事によると、1879(M12)百武兼行がパリで制作した油画が、富山県立近代美術館の調査により富山県高岡市在住の中島盛有の子孫宅で見つかったとのこと。見つかったのは少女の顔をキャンバスに描いた40×32.5センチの作品。最高傑作とされる『マンドリンを持つ少女』や『ブルガリアの女』と同じ年に、同じモデルを描いたとみられる。百武兼行と中島盛有は旧佐賀藩主側近であり、二人は同時期にイギリスに留学していた。その時に百武兼行が中島盛有に友情の証として贈ったものと考えられている。盛有の長男の中島秋圃が父の形見として譲り受け、富山県工芸高校(富山県立高岡工芸高等学校)の日本画教師として赴任したため、作品が高岡に伝わった。この発見は「洋画が日本に入ってきた最初の経緯を示す美術史的な財産」であり、「明治時代の画家の努力の跡がうかがえ、縁者が大事に保管していたことは文化史的にもありがたい」という研究者の声が添えられていた。なお百武兼行の墓は佐賀県佐賀市与賀町にある「浄土寺」。


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