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なかの やすお

中野泰雄

なかの やすお

1922.5.8(大正11)〜 2009.4.14(平成21)

昭和・平成期の社会思想家

埋葬場所: 12区 1種 1側 2番

 東京出身。戦前にジャーナリストから政治家へ転身し活躍した中野正剛(同墓)・多美子の四男。母方祖父は評論家の三宅雪嶺。
 早稲田第二高等学院を経て、早稲田大学政治経済学部卒業。学生時代の英書担当の酒枝義旗に出会い師事。 東京帝国大学の大塚久雄の切断手術を受け、父の正剛自身も義足であることから、酒枝に言われ、大塚の義足の世話をした縁で交流があり、1943(S18)10月初頭に父から大塚を紹介されている。 父から「息子たちのことを頼みます」と言われていたようだ。大塚との出会いにより、酒枝のゴットル経済学からマックス・ウェーバーの普遍史に入り込むこととなったという。 なお、同年の10月27日に父の正剛が自宅で自決。その数時間前に、「千里の目を窮めんと欲し更に上る一層の楼」と色紙に書き渡された。同年12月1日学徒出陣で東京の三軒茶屋にあった東部13部隊に入隊。
 戦後は、兄の中野達彦(同墓・正剛の三男)と共に、三宅雪嶺の希望により、父が残した出版社「真善美社」を引き継ぎ、花田清輝を編集顧問とし父の遺産で経営した。 ここで、花田よりマックス・ウェーバーの『儒教と道教』の翻訳と、正剛の伝記を書くことを勧められる。 '48出版社は倒産したが、印刷会社で働きながら、マックス・ウェーバーの研究と、日本史・世界史の研究につとめ、正剛の伝記出版に向けて歴史研究と資料収集は引き続き行った。
 '63(S38)マックス・ウェーバーの社会学の研究が評価され、亜細亜大学講師となり、学生寮の寮監となった。 大学勤務の傍ら、この寮監室にて400字5500枚の大作である父親の伝記『政治家中野正剛』を書き上げ、'71酒枝と大塚が推薦人として刊行。 その後、『アジア主義者中野正剛』、『父・中野正剛―その時代と思想』など父親である中野正剛の事績を世に出した。
 この間、'66助教授。'74教授。当時の規程で教科書を出版しなければ教授になれないというのがあったが、専ら、父の正剛の執筆に専念しており、研究書物は後回しにしていた。 その折、経済学部が商学部経済学科から独立するにあたり、それまでの日本政治史担当から、社会思想史担当に変更。 これによりマックス・ウェーバー研究が本格的となり、「経済学紀要」に発表した論文をまとめ、'77『マックス・ウェーバー研究』を出版した。 後に普遍史をめざした『アジア学事始』や『社会思想史入門』等も刊行。また、国際関係研究のため韓国・朝鮮の近代史の研究に乗り出す。 日本近代史観を勝海舟および中江兆民の視点を組み入れる。『安重根と伊藤博文』などの歴史書も手掛ける。学校では経済学部長や大学院研究科委員長を務めた。
 1993(H5)定年退職を迎えたが、国際関係学部の完成年にあたることから、客員教授として引き続き担当し、比較社会思想史を講義した。 亜細亜大学名誉教授。肺炎のため逝去。享年86歳。葬儀・告別式は近親者で行った。

<訃報記事>
<「生き生きて亜細亜大学31年」(中野泰雄先生退職記念号)中野泰雄>


碑

*墓所正面に和型「中野家之墓」。右側に墓誌があり、右手前に中野正剛碑が建つ。墓誌には俗名、正剛四男、没年月日、行年が刻む。


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