下総国(千葉県銚子)出身。本名は精一。宮内幸太郎(21-1-30)は甥。文久年間、銚子に漂着した外国人がもつ写真を見て大変驚いたことが、生涯写真を志すきっかけになったという。
1864(元治1)江戸に出て絵画を学ぶが、漢書・蘭書をもとに写真術を研究する。
後に横山松三郎に洋画を学ぶが、同時に写真術も学んだと思われる。1874(M7)東京浅草の吾妻橋北に写真館を開業する。
号の「待乳」は、写真館の近くにあった名勝「待乳山」にちなんで横山松三郎がつけたといわれている。
1877年第1回内国勧業博覧会に松野政蔵名で出品し花紋賞を受賞したのをはじめ、その技術の高さには定評があった。
1878年頃から、幻灯(ランタンスライド)の制作を始め、写真による視覚教育の先鞭を開く。
また1894年には、大日本写真品評会の評議員となり、絵画主義(ピクトリアリズム)を標榜する芸術写真の発展にも貢献した。
同年、呉服橋に写真館を移転する。晩年は牛込弁天町に住んだ。
*墓石は和型で「南無妙法蓮華経」と刻む。台座に中島家。裏面は中島待乳夫妻の戒名が刻む。戒名は「正念院●心一到日精居士 / 順福院勤善●貞日園大姉」。
※●=玄+少
*墓所入口左側に中島待乳の碑が建つ。碑は「昭和三年十月」に建ち、題字は「紀功碑」、撰文タイトルは「中島翁紀功碑」と刻む。「正三位勲一等 鈴木善三郎 題額」「正五位勲六等 細田謙 撰」「二松学舎教授 佐倉孫三 書」。
【幻灯機(げんとうき)】
幻灯機とは英語で「magic lantern」(マジック・ランタン)という。幻灯機はランプとレンズを使って、ガラスに描かれた画像を適当な幕に投影するスライド映写機の原型にあたる機械である。現在のプロジェクターの初期形態。
第398回 写真師 幻灯機製造のパイオニア 中島待乳 お墓ツアー
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