メイン » » » 中部謙吉
なかべ けんきち

中部謙吉

なかべ けんきち

1896.3.25(明治29)〜 1977.1.14(昭和52)

昭和期の実業家(大洋漁業)、大洋ホエールズオーナー

埋葬場所: 7区 1種 15側 15番

 兵庫県出身。父は林兼工業設立者の中部幾次郎。家業の林兼商店に入り、1953(S28)大洋漁業社長に就任。大日本水産会長、全国冷凍食品輸出水産業組合理事長、経団連・日経連各常任理事を歴任した。
 プロ野球大洋ホエールズ(横浜ベイスターズ)のオーナーも務める。 大洋漁業社長に就任した'53は、松竹ロビンスと球団の合併・統合が決まりながらも運営会社の完全合併が間に合わず、フランチャイズも大洋球団の下関市と松竹球団の京都市で並立し、球団運営も2社で1つのチームを運営するという変則的な形となり、選手の給与もそれぞれの前所属チームから支給されていた。 '54シリーズ終了後に、謙吉はまず松竹を完全撤退させ、球団を神奈川県へ移転し、川崎市の川崎球場を本拠とする新生ホエールズとして心機一転させる大改革を行った。 チームは'54から'59まで6年連続最下位であったが、'60三原脩を監督に招聘し、秋山登や島田源太郎を中心とした投手力を前面に押し出し、前年最下位から一転、リーグ優勝・日本一を果たした。 球団経営は赤字が続き、ジャイアンツ戦以外は閑古鳥が鳴きつづけ、日本シリーズですら観衆は2試合とも1万8千人台と満員にはならなかった。 謙吉はこの頃から球団の横浜進出を考えるようになり、老朽化が著しかった横浜平和球場の再建、新球場設立を横浜市と話し合った。 '78西武鉄道グループの出資を受け入れ、同社の主導で横浜市に建設した横浜スタジアムに移転、都市名を入れた横浜大洋ホエールズに改称。地域密着型の球団を目指した。
 1862(S37)12月神奈川県厚木市に幾徳学園を設立し、初代理事長となった。 学校は、'68幾徳工業高等専門学校を設置、'75幾徳工業大学を設置、'78幾徳工業高等専門学校を廃校、'88年大学名を神奈川工科大学と改名(学校法人幾徳学園)して現在に至る。 謙吉没後は、子の中部謙次郎(1924〜2002.12.10 同墓)が'77(S52)二代目理事長に就任し、25年間にわたり、学科の増設、大学院の設置、教育研究環境の整備充実、地域との連携や協力などに尽力した。 謙次郎没後は、中部謙一郎が2002(H14)8月より三代目理事長となり現在に至る。鈴木松夫著作の「中部謙吉」1961などがある。

<コンサイス日本人名事典>
<日本プロ野球史など>


*墓石は和型「中部家之墓」。裏面「昭和十七年二月 中部謙吉 建之」。左面「大本山増上寺 真阿徹水」。右側に墓誌があり、謙吉の戒名は慈観院殿謙譽明海流石大居士。前妻は山口の素封家・木梨辰次郎の次女の慶子。慶子の母方の伯父に男爵の藤村義朗(13-1-16-11)がいる。後妻は美子。大洋商船社長から幾徳学園2代目理事長を務めた次男の中部謙次郎の戒名は徳峰院仁譽岳居士。謙次郎の妻の富美子は大倉電気社長の大倉亀の長女。

*中部謙吉の前妻の慶子(1901-1941)と、1919(T8)謙吉が21歳、慶子は16歳の時に結婚。親同士が友人関係からの縁組であった。慶子が40歳の時に腸チフスを患い亡くなった。妻を亡くした謙吉はひどく落ち込み、それでも前を向かねばと、大学教授を援助しチフス研究会を発足させている。前妻との間に4男3女を儲けている。長男の昌一は2才、2女の かね子は20代の若さで亡くしており同墓に眠る。墓石が昭和十七年建之のため、前妻の慶子が亡くなり建てたと考えらる。墓誌は昌一(T10歿)が先に亡くなっていたが、慶子からの刻みで始まる。
 次男の中部謙次郎が跡継ぎとなる。3男の中部藤次郎(1926-1987)は大洋漁業5代目社長。4男の中部慶次郎(1933-2007)は大洋漁業6代目社長で横浜球団4代目オーナー、後に球団名を横浜ベイスターズに変更し初代オーナー及びTBSへ球団譲渡した人物。長女のなつ子は国際電信電話副社長を務めた児島光雄に嫁ぐ。3女の末代はメイフラワーエンタープライズ社長の小林昌仁に嫁ぐ。後妻の美子の間に1男2女を儲け、4女の孝は大洋漁業の阿久沢治夫に嫁ぐ。5男の中部謙(1943-)はマルハニチロ副社長を務めた。5女の久美子は三井造船の椿原真人に嫁ぐ。

*中部謙吉の父は林兼商店(大洋漁業の前身)創業者の実業家の中部幾次郎(1866-1946.5.19)。中部家代々の菩提寺は明石市鍛冶町の光明寺。幾徳学園の名称は幾次郎からとられている。謙吉は幾次郎の次男であり、1923(T13)分家した。なお、幾次郎の長男は大洋漁業2代目社長で大洋球団初代オーナーの中部兼市、3男は大洋漁業副社長および林兼産業会長の中部利三郎。兼市の3男は大洋漁業副社長で大洋球団3代目オーナーの中部新次郎。利三郎の長男は林兼産業会長を務めた中部一次郎。利三郎の3男はアマチュアゴルファーの中部銀次郎。

*謙吉は大洋漁業社長、大洋ホエールズオーナー、大日本水産会会長、財団法人中部奨学会理事長、日本貿易振興会理事、全国冷凍食品輸出水産業組合理事など、大洋漁業の中興の祖として世界最大の水産企業へ発展させた功績により、藍綬褒章受章、勲二等旭日重光章受章、勲一等瑞宝章受章、明石市名誉市民になっている。


【大洋ホエールズと中部謙吉オーナー】
 戦後、公職追放を受けていた中部謙吉に代わり、大洋漁業の経営は兄の中部兼市が引き継いでいた。1952公職追放解除に伴い、謙吉は副社長として復帰。翌年、兄の兼市が急死したため、社長に就任した。以後、1977亡くなるまで24年間に渡り社長業を全うした。
 兄の急死で大洋漁業社長に就任したと同時に、兄の兼市が創設した大洋ホエールズのオーナー職も兼務することになった。兼市は大の野球好きであり球団を所有することになったが、謙吉は消極的であり「兄貴が始めた球団だから仕方がない」と渋々引き受けた。
 1950(S25)プロ野球は正力松太郎の発案で2リーグ制となった。そのため、チーム数を増やすにあたり、プロ野球選手も増やす必要となる。元々大洋漁業は社会人チーム('29.5設立)をもっていたが、このことで主力をごっそり引き抜かれる事態となった。これを受けて、中部兼市は「ならばわが社もプロ野球チームを作ろう」となり、「まるは球団」(1949.11.22:翌年に「大洋球団」に変更)を発足し、「大洋ホエールズ」が誕生することになる。本拠地は山口県下関の下関球場。しかし、多くの主力選手は他球団にすでに引き抜かれた後であり、球団創設1年目は5位(8チーム中)でシーズンを終えた。
 '51シーズンは6位、'52シーズンは4位と低迷。1952 リーグ代表会議でシーズン勝率3割を切った球団には処罰を決めるという申し合わせがされた。当初は不採算から経営悪化をしていた広島カープを吸収合併することが検討されたが、広島市民の大反対があり、合併話は立ち消えた。セリーグ初代チャンピオンの松竹ロビンスも経営悪化のため運営費削減で戦力が低下しており、'52シーズンを34勝84敗の勝率.288で3割を下回る結果となった。このため、大洋ホエールズと合併することになり、1953.1.10松竹と大洋漁業の対等合併で合意し、同.1.24合併決定した。これによりセリーグは6球団体制となる。球団名を「大洋松竹ロビンス」としたが、成績は5位。翌年の'54シーズンは「洋松ロビンス」(ようしょう)という名称に変更し戦うが、32勝96敗2分の最下位で、優勝した中日とは55ゲーム離され、5位の国鉄にも23ゲームの大差をつけられる大惨敗であった。
 '54.12.11 松竹は野球の熱がなくなり球団から撤退。球団名を「大洋ホエールズ」に戻した。兄から引き継いだ時には松竹との合同チームであり、野球熱もあまりなかった謙吉であったが、'55シーズンから再出発の大洋ホエールズのオーナーに就任したことで前向きとなり、また本拠地を神奈川県・川崎球場に移転させることで、自身も頻繁に球場に足を運ぶようになった。野球が身近になった謙吉もしだいに野球に興味を持つようになる。人情深い性格から選手の相談を直接乗ることもあり、試合に出られない選手を出すように監督に提言をしたり、引退後に大洋漁業の社員にするなど、現場に口を出すオーナーであり、かつ面倒見が良いオーナーであった。
 新生ホエールズとして再出発をしたが、'55シーズンは最下位。'56 明治大学から秋山登ら5名入団させ「明大五人衆」と注目され、巨人から青田昇が移籍し本塁打王となる。しかし、前身のロビンス時代から、'59シーズンまで6年連続最下位。そこで、'60 前年まで西鉄ライオンズの監督だった三原修を招聘。選手のてこ入れを行い戦った結果、前年までの最下位から一転し、リーグ優勝を果たした。日本シリーズも大毎オリオンズに4連勝し日本一に輝いた。
 '67三原監督の勇退、巨人の9連覇などもあり、首位争いに絡まない低調な順位で平行線。'76川崎から横浜へ新球場建設プランと伴に移転計画がされ了承される。翌年1月に謙吉は亡くなる。最後のシーズンは15年ぶりの最下位であった。
 謙吉没後は、中部藤次郎、中部慶次郎と継承。'78横浜スタジアムに本拠地を移転したことにより、球団名を「横浜大洋ホエールズ」と改称。'93(H5)大洋漁業がマルハに改称することに伴い、球団名も地域密着の市民球団を目指すため「横浜ベイスターズ」と改称。中部慶次郎オーナーが商業捕鯨の規制が強まっていることを指摘し、クジラばかりに頼るわけにはいかなくなった。愛称も変更しなければならないとし、「ホエールズ」から、横浜ベイブリッジからとった「ベイスターズ」の変更となった。'98 権藤博監督が就任し、コーチ時代に鍛えた佐々木主浩ら投手陣、一度打ち始めると止まらない「マシンガン打線」がかみ合い、38年ぶりのリーグ優勝を果たす。
 2001.11.16 経営悪化のマルハは球団株第2位の株主であったニッポン放送への球団株譲渡(身売り)を発表。ところが、巨人の渡邉恒雄オーナーが、ニッポン放送の特分法適用関連会社であるフジテレビがスワローズの球団株を所有しているため、売却は野球協約に抵触すると異議申し立てをした。これによりニッポン放送への球団売却はとん挫。結果的に第3位株主の東京放送ホールディングス(TBS)に譲渡された。これは身売りではなく、「筆頭株主の交代」判断の譲渡のため、加盟料30億円の支払いは不要となり、球団名もユニフォームも継続。ユニフォームの袖にTBSのロゴマークが入ったのみであった。なお、2012以降は親会社がDeNAとなり「横浜DeNAベイスターズ」として現在に至る。

<中部謙吉「私の履歴書」>
<人事興信録>
<オフィシャル・ベースボール・ガイドなど>



第237回 プロ野球 オーナー 大洋ホエールズ 中部謙吉 お墓ツアー
洋松ロビンス 幾徳学園


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・な行 | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。