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なかべ けんきち

中部謙吉

なかべ けんきち

1896(明治29)〜 1977(昭和52)

昭和期の実業家(大洋漁業)、大洋ホエールズオーナー

埋葬場所: 7区 1種 15側 15番

 兵庫県出身。父は林兼工業設立者の中部幾次郎。家業の林兼商店に入り、1953(S28)大洋漁業社長に就任。大日本水産会長、全国冷凍食品輸出水産業組合理事長、経団連・日経連各常任理事を歴任した。
 プロ野球大洋ホエールズ(横浜ベイスターズ)のオーナーも務める。 大洋漁業社長に就任した'53は、松竹ロビンスと球団の合併・統合が決まりながらも運営会社の完全合併が間に合わず、フランチャイズも大洋球団の下関市と松竹球団の京都市で並立し、球団運営も2社で1つのチームを運営するという変則的な形となり、選手の給与もそれぞれの前所属チームから支給されていた。 '54シリーズ終了後に、謙吉はまず松竹を完全撤退させ、球団を神奈川県へ移転し、川崎市の川崎球場を本拠とする新生ホエールズとして心機一転させる大改革を行った。 チームは'54から'59まで6年連続最下位であったが、'60三原脩を監督に招聘し、秋山登や島田源太郎を中心とした投手力を前面に押し出し、前年最下位から一転、リーグ優勝・日本一を果たした。 球団経営は赤字が続き、ジャイアンツ戦以外は閑古鳥が鳴きつづけ、日本シリーズですら観衆は2試合とも1万8千人台と満員にはならなかった。 謙吉はこの頃から球団の横浜進出を考えるようになり、老朽化が著しかった横浜平和球場の再建、新球場設立を横浜市と話し合った。 '78西武鉄道グループの出資を受け入れ、同社の主導で横浜市に建設した横浜スタジアムに移転、都市名を入れた横浜大洋ホエールズに改称。地域密着型の球団を目指した。
 1862(S37)12月神奈川県厚木市に幾徳学園を設立し、初代理事長となった。 学校は、'68幾徳工業高等専門学校を設置、'75幾徳工業大学を設置、'78幾徳工業高等専門学校を廃校、'88年大学名を神奈川工科大学と改名(学校法人幾徳学園)して現在に至る。 謙吉没後は、子の中部謙次郎(1924〜2002.12.10 同墓)が'77(S52)二代目理事長に就任し、25年間にわたり、学科の増設、大学院の設置、教育研究環境の整備充実、地域との連携や協力などに尽力した。 謙次郎没後は、中部謙一郎が2002(H14)8月より三代目理事長となり現在に至る。鈴木松夫著作の「中部謙吉」1961などがある。

<コンサイス日本人名事典>
<日本プロ野球史など>


*大きな墓所内に中部家之墓。その右側に墓誌が建ち、名前を確認できる。

*中部幾次郎の墓は明石市の光明寺に眠る。


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