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ながい ほうじ

永井萠二

ながい ほうじ

1920.5.4(大正9)〜 1993.9.6(平成5)

昭和・平成期の新聞記者、児童文学作家

埋葬場所: 22区 1種 81側

 東京出身。父は新聞記者の永井萬助(同墓)。五人姉弟の末っ子として生まれる。
 小学生の時に女子大生であった長姉が「赤い鳥」を購読しており、それを読ませてもらい影響を受け童話や童謡に興味を抱く。府立六中を経て、同級生の秀才たちが海軍兵学校や陸軍士官学校へ進学していく中、文学好きであったため早稲田大学文学部社会学科に進み、在学中は早大童話会に所属した。
 繰り上げ卒業させられ、1943.12(S18)学徒出陣で川崎の東部六二部隊に配属された。この部隊は硫黄島で玉砕して犠牲者を多数出したが、硫黄島には行かず初年兵教育係の班長として終戦を迎えた。
 戦後、'46 朝日新聞社に入社。記者として、後に週刊朝日の名編集長となる扇谷正造に鍛えられた。記者して10年間は、戦後の荒廃した世相のなかでルポルタージュを書き続けた。傍ら児童向けノンフィクションを執筆。'51 処女作は『南極にいどむ日本人 白瀬隊探検物語』。'53『新聞とラジオ』、'55 三冊目となる児童書『ささぶね船長』でサンケイ児童出版文化賞受賞。
 自伝(『見知らぬ人見知らぬ町』)から『ささぶね船長』の執筆秘話を紹介する。ある日、ふとふりかえると、むかし知りあった浮浪児の姿が宿題のように心にのこっていた。「なんとか、かれらを主人公にして、子どもに贈る小説が書けないだろうか」。アメリカ兵の前に空カンをつきだし、めしやチューインガムをねだっていた、かなしい日本の子どもの姿が、わたしの胸をかすめた。あの子どもたちこそ、戦争のほんとうの犠牲者だった。もっとも弱い者が、もっとも悲惨な運命を強いられるのだ。わたしは、街で知りあったたくさんの浮浪児のなかから、三人の少年少女を選んだ。あのどん底から、強くけなげに生きぬいてきた、春雄・算吉・牧子の三人を主人公にして、わたしは長編創作『ささぶね船長』(新潮社。のちに理論社:1954)を書いた。
 以後、文芸朝日副編集長、朝日新聞編集委員を歴任。'76 朝日新聞社を定年退職。日本ペンクラブ会員。定年後は、千葉県松戸市の聖徳学園短期大学教授となり児童文学を講義した。のちに青山学院女子短期大学講師も務めた。
 朝日新聞の書庫にある33年間の約1600冊におよぶ「週刊朝日」の中から、自分の署名入りの記事を全部抜き出し編集し、『キムチの匂う街』『春風のなかの子ども』『戦後庶民の歩み』のルポルタージュ集を刊行した。
 記者生活30年で約40冊の児童書を出しており、定年後も多数出版している。主な著書に、'59『スコット』、'60『白鳥ねむるとき 童話風の手紙』、'65『赤まんま 母たちにおくる話』、'68『雑草の歌 日本の片隅でのレポート』、'75『焼け跡は遠くなったか ある人生派記者の戦後体験ノート』、'83『いちょう文庫の芽』など多数あり、'71『くにこいくにこい』、'72『おとうさんはしんぶんきしゃ』などの絵本もある。また、'64『ケネディ・チャーチル 幼年世界伝記全集』、'66『南極観測隊の記録』、'68『勇気あるケネディ兄弟』、'71『名もなき人びとの伝記』、'72『サンアンツンの孤児』、'81『世界の伝記 2 アムンゼン』、'84『南極点をめざして』などの伝記も多数執筆した。他に、'83 ローリングズ『子鹿物語』、スティーブンソン『たから島』などの訳書もある。'80 自伝『見知らぬ人見知らぬ町−国境の町から火の国へ』がある。
 長年の児童文学者としての功績により日本児童文化功労賞が贈られた。享年73歳。

<20世紀日本人名事典>
<現代日本人名録>
<自伝『見知らぬ人見知らぬ町−国境の町から火の国へ』>


*墓石は洋型「永井家」、裏面は「此処に眠る」と題して墓誌となっている。萬助の長男で早死した永井克己(S14.9.15没・行年22)から刻みが始まる。次に萬助、萬助の妻の柳子(S35.10.25没・行年74)、萬助次男の萠二、萠二の妻の光代(H20.9.2没・享年85)が刻む。


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