メイン » » » 村山祐太郎
むらやま ゆうたろう

村山祐太郎

むらやま ゆうたろう

1905(明治38)〜 1990.9.15(平成2)

大正・昭和期の実業家(ピアノ線)

埋葬場所: 6区 1種 12側

 山形県天童町老野森出身。父の栄作、母のハルの3男として生まれる。 代々裕福な家柄であったが、父親が事業に失敗し、貧乏のどん底に落ちてしまい、祐太郎は小学生にして、妹の世話、家事だけでなく、内職の将棋駒づくりなどの手伝いをした。 若干13歳にして、一人で生きる道を選択し上京。天童出身で東京京橋で自転車店を営んでいた今野氏を頼り、丁稚奉公。夜は商業学校で学び、卒業後は明治大学夜間部に進学し学問に励んだ。
 '22(T12)関東大震災で被災し、奉公人が故郷に帰る中、東京に留まり、2年後に自転車店を開店した。 店は繁盛し、事業を拡張させ、鈴木金属工業株式会社を創設。そこで日本で初めてピアノ線の生産を始めた。 当時、ピアノ線はスウェーデン製が優れシェアを独占していたが、苦労を乗り越えてピアノ線の国産化に成功した。 その後も、PC鋼線、ステンレス線、パラレルワイヤなどさまざまな製品を生み出し、日本の産業の発展に大きく責献した。
 37歳のときに出会った熊谷守一(26-1-2)画伯からは親しく指導を仰ぎ、画伯が亡くなるまで交友を深めて大きな影響を受けた。 晩年、天童市美術館に熊谷守一の作品24点を寄贈。田口栄一の著の熊谷守一書画集合本『真のふたり 熊谷守一と村山祐太郎の世界』がある。 他に野村三三の著『ピアノ線の人/村山祐太郎伝』など多数。天童市名誉市民。享年85歳。

<天童市名誉市民 紹介文>


 


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・ま | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。