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むらやま たけし

村山威士

むらやま たけし

1885(明治18)〜 1972.9.5(昭和47)

明治・大正・昭和期の実業家(日産)

埋葬場所: 24区 1種 14側

 鳥取市出身。父は金治(同墓)。1909(M42)京都帝国大学機械科卒業。この頃は日露戦争以後の反動期にあった関係で、折角の就職会社がつぶれる憂目に遭うこと二度、そこで技術家として限界を考えた末、当時、戸畑鉱物をやっていた鮎川義介(10-1-7-1)のところへ行き、「技術の方は懲り懲りしたから、事務の方に使って貰いたい」と頼み込み、戸畑鉱物の販売主任となり、これを振り出しに取締役にまで昇進した。
 その後も鮎川の関係事業に携わり、後に合同水産専務、戸畑金属専務、日本食料工業専務、木津川政策常務を歴任。'37(S12)日本油脂の専務となる。この時の社長は二神駿吉(8-1-5)。副社長を経て、'42社長に就任。'44.9〜'45.6 第5代日産重工業株式会社(日産自動車)社長に就任した。
 戦後は、'54.2.4(S29)科学研究所法により第三次(株)科学研究所設立(半官半民)され、初代社長に就任した。'56.11会長となる。他に農村工業振興会理事長や東京因伯郷友会会長(5代)などを務めた。

<鳥取県大百科事典>
<日本産業経済新聞 1944.2.25(昭和19)など>


墓所

*墓石は和型「村山家之墓」。右に墓誌がある。戒名は天聰院殿威徳良壽居士。妻はヒサ。墓石は平成3年に村山威士の息子の村山武久が建之した。


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