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むなかた ひさのり

宗像久敬

むなかた ひさのり

1889.9(明治22)〜 1970(昭和45)

大正・昭和期の銀行家

埋葬場所: 8区 1種 13側 2番

 岡山県出身。宗像家は福岡の宗像一族の出であったが、その後、岡山に移る。宗像為次郎の弟。1914(T3)分家。
 六高、一高を経て、1914(T3) 東京帝国大学法科大学政治学科卒業。後に政治学者・東大総長となる南原繁(3-2-11-2)とは勉強のライバルであり、同点首席で卒業となり二人は銀時計を賜った。卒業後、日本銀行に入行。日銀同期には男爵の原田熊雄がいる(原田は6年後に退行)。
 調査役を経て、福島支店長、'32.8 神戸支店長を経て、1934(S9)ロンドン代理店監督役に就任。吉田茂巡閣使らと共に、英国の提案する中国法幣制度確立にための対中経済借款案(リース・ロス幣制改革案)に参加するよう、米国に働きかけた。
 日本銀行本店に戻り、'37 調査局長に就任。'38.10 上海駐在参事となり、海軍や外務省の顧問も兼ねた。この時、第一次近衛文麿内閣の池田参議の下に、英国等との華中国際通貨共同創出による対中終戦工作を行った。これは宗像のリース・ロス幣制改革案への協力構想の延長線上にあった。宗像や池田の努力は大きな限界を有しており、結局失敗に終わる。ただ協力し合った近衛・池田・吉田・原田・宗像らのネットワークは、後の対米英中の終戦工作が模索されることにつながる。なお著書に『リースロスの中国幣制改革』がある。
 その後、日銀審査部長を経て、占領地の蒙彊銀行総裁に就任した。蒙彊(もうきょう)は大日本帝国の傀儡国家として成立した内モンゴルの自治区である。蒙古聯合自治政府(徳王政権)の中央銀行で、'37 創立されたが、'45 同政府崩壊とともに瓦解し、ポツダム宣言受諾にともない閉鎖機関令に基づき閉鎖された。蒙彊銀行総裁の宗像は、現地の陸軍と衝突して帰国している。
 '45.3 戦争末期の日本が敗色濃厚となってきた時期、東京帝国大学法学部長となっていた同窓の南原繁らとともに終戦工作に携わるが失敗に終わり終戦を迎える。
 当時、終戦工作をめぐっては、対戦国たる米英と直接行うべきであるという主張と、中立国であるソ連を通じて行うべきであるという主張とがあり、このほか、交戦国たる中国や中立国のスイス、スウェーデン、ヴァチカン等を通じて行うべしとの議論があり模索されていた。南原らは直接米英と、それが無理なら第三国を通じて米国と交渉するべきだと主張。しかし政府はそれに反し、ソ連を通じた和平工作に望みをつないだ。結果的には対日参戦を決定していたソ連はこれに応えず参戦してくることになる。南原ら有識者の声と反対の立場をとった政府の中心にいたのが、昭和天皇の側近だった木戸幸一(18-1-3)内相である。
 没後、二男の宗像巌が所蔵していた「宗像久敬日記」が公になり、戦時中の終戦工作の談話を伺うことができる歴史的貴重な資料となる。ここに、木戸幸一がソ連との和平工作をすべきだと提言している裏付けがあり注目された。「ソ連仲介工作を進めれば、ソ連は共産主義者の入閣を要求してくる可能性があるが、日本としては条件が不真面目でさえなければ、受け入れてもよい」と話をしており、さらに「共産主義と云うが、今日ではそれほど恐ろしいものではないぞ。世界中が皆共産主義ではないか。欧州も然り、支那も然り。残るは米国位のものではないか」とし、「今の日本の状態からすればもうかまわない。ロシアと手を握るがよい。英米に降参してたまるものかと云う気運があるのではないか。結局、皇軍はロシアの共産主義と手をにぎることになるのではないか」とソ連に対する見方が木戸は極めて甘かったことがわかる。
 油絵を得意としており、晩年、'69.6 銀座七丁目の資生堂ギャラリーにて個展を開いた。享年81歳。

<大衆人事録東京篇>
<帝国大学出身名鑑>
<人事興信録>
<「宗像久敬ともう一つの終戦工作」松浦正孝>


*墓石は和型「宗像家之墓」、裏面「昭和十三年十二月 宗像久敬 墓造」。その他、墓誌などはない。

*宗像久敬の妻は なみゑ(M28.12生)。千葉県出身で岡本貫一の4女。2男3女を儲ける。長男は宗像敬(T7.4生)は『管弦楽技法』『十二音抜法に基づく対位法の研究』の翻訳刊行。二男の宗像巌(T9.12生)は社会学者、上智大学教授。長女は ますみ(T8.8生)、二女は早死、三女は明子(S3生)。


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