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もりやま しずき

森山静記

もりやま しずき

1892.7.5(明治25)〜 1970.1.12(昭和45)

大正・昭和期の農業技師、肥料研究家、実業家

埋葬場所: 11区 2種 7側 1番

 鹿児島県鹿児島市下龍尾町出身。父は鹿児島県官吏の児玉静之進。1923.8.6(T12)母方の実家の森山家を継ぎ森山姓となった。旧姓は児玉。
 県立第一鹿児島中学校に進学し、軍人志望を持ちボート部に入るなど体を鍛えていたが、最終的には身長が足りずに軍人をあきらめ、両親の勧めに従い、農業に興味はなかったが、1912.9.11(T1)鹿児島高等農林学校農学科に入学した。学ぶに連れ、農業に惹かれるようになり、特に農業化学に興味を持つ。'15.7.11 同校農学科得業、同.12.22 農事試験場見習生入場、'16.7.19 愛媛県煙害調査事務嘱託を経て、'18.3.29 農事試験場技手となった。その後、技師に昇格したが、'29.9.17(S4)依願免職し、同.9.20 大日本人造肥料株式会社に技師として入社した。
 '30 醤油速醸法の発明に対し第3回科学工業博覧会進歩賞を受賞し、この発明は、'33 帝国発明協会進歩賞も受賞した。'37.5.1 同社の王子工場ソヤメント係主任となり、工務部農務課長、化学部農務課長、化学部肥料農薬課長などを兼務していたが、同.12.4 会社は日本化学工業株式会社と合併し、同.12.12 日産化学工業株式会社と改称。'44.6.22 白岡農事試験場長に就任した。
 終戦後、'45.11.1 本社化学工務部長代理 兼 農務課長に着任。'47.1 財団法人肥料研究所評議員・理事に就任。'48.2.1 小松川工場長となる。'49 燐酸質肥料の発明に対し全国発明技術者大会優秀発明賞を受賞。同.11.30 日本肥糧株式会社への出向により解職し、翌日より日本肥糧株式会社取締役社長に就任した。'53.11.28 全国耕土培養対策協議会副会長。'55.10.7 有機質固形肥料製造法発明により特賞、'56.5.31 固形肥料発明により発明賞を授与した。同.9.1 固形肥料発明で得た資金を寄附し、それを資本金として財団法人肥料科学研究所を設立、理事長に就任した。
 同.11.15 財団法人農業技術協会表彰、'58.3.28 東京都知事表彰、同.5.7 財団法人大日本蚕糸会貞明皇后記念蚕糸技術賞、同.12.6 紫綬褒章と、森山静記の多年の活躍と固形肥料の発明にって受賞ラッシュとなった。
 '65.10.29 日本肥糧株式会社取締役会長に就任。'69.11.8 日本肥糧株式会社の創立20周年記念式典が東京の椿山荘にて開催される朝、発病により急きょ北品川総合中央病院にて入院療養。二か月後、'70.1.12午後6時38分に脳血栓にて逝去。享年77歳。同.1.21 青山葬儀場にて日本肥糧株式会社の社葬が執り行われた。同.3.1 多磨霊園のこの墓地に納骨された。
 日本の農業の発展を願い、固形肥料の開発・研究と普及に貢献し、日本における肥料研究及び肥料産業の発展に尽力した。

<「森山静記と固形肥料の発明」熊澤喜久雄・高遠宏 (肥料科学 第28号)>


*墓石は正面「森山家之墓」、裏面「昭和九年十一月 森山静記 建之」。右側に墓誌があり、森山静記には「従五位 勲四等」と刻み、戒名は徹心院釋大機静観居士。長男で肥料科学研究所を継ぎ2代目理事長を務めた森山真明の戒名は真徹心釋智明居士。


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