東京出身。旧紀伊新宮藩主・男爵の水野忠幹の5男。1884.10(M17)旧結城藩・水野宗家第17代当主の水野忠愛(ただよし)の養嗣子となり、同.12 家督を相続し、子爵を襲爵。
1903(M36)東京帝国大学法科大学卒業。'04.7.10 第3回伯子男爵議員選挙で初当選を果たし、貴族院議員となり研究会に所属。以後議員在任期間は、'04.7.10(M37)〜'20.6.30(T9)、'22.10.21(T11)〜'29.4.30(S4)と、当選7回、23年間、没するまで政治家を務めた。
政治活動は、'13.6 教育調査会会員、'17.9〜'19.11 臨時教育会議委員、'19.12 学習院御用掛、その他、鉄道会議臨時議員、資源審査会委員等を歴任。大正期は青木信光とともに研究会の指導的な立場に立ち、従来の研究会の基本方針であった超然主義を否定して立憲政友会の原内閣に接近した。'20.6.30(T9)貴族院議員を辞職したが、'22.10.21補欠選挙で再選した。'23.4 研究会を離脱して新和会に入会し、機能停止に陥っていた新和会内部をまとめて、同.7 新和会を解散し研究会に合流させた。
第2次山本内閣総辞職後、清浦圭吾の首相擁立工作に加担し、清浦内閣成立の組閣参謀として功労者となる。第2次護憲運動で清浦内閣と研究会が批判の矢面に立たされると、清浦を見限り、護憲三派に接近、貴族院や研究会内部で反対派が多かった普通選挙成立をさせる代わりに研究会へのポストを求めた。新首相となった加藤高明はそれに応じ、'25.8 〜'27.4 加藤高明内閣の陸軍政務次官のポストに水野が任命された。
貴族院と政府・政党の連絡役に努め「貴族院の策士」「子爵議員團の重鎮」として活躍していたが、'29.4.30(S4)、50歳の若さで急逝した。同日付で勲1等瑞宝章追贈。従三位。