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みよし まなぶ

三好 学

みよし まなぶ

1862.1.4(文久1.12.5)〜 1939.5.11(昭和14)

明治・大正・昭和期の植物学者

埋葬場所: 8区 1種 10側 26番

 美濃国岩村(岐阜県)出身。岩村藩士の三好友衞の二男として生まれる。11歳の時に父が没したため、越前邦坂井郡の浄土宗西光寺の住職に引き取られた。
 1878(M9)石川県第三師範学校を卒業し、郷里の岐阜の土岐学校(小学校)の教員を務め、校長も歴任した。授業内容を記した日誌や教科書も自作でつくるなど教員生活を過ごしていたが、志高く上京し東京帝国大学理科大学に特待生として進学。1889 東京帝国大学理科大学を卒業し、大学院に進み地衣類(菌類:子嚢菌類のうちで、藻類:シアノバクテリアあるいは緑藻を共生させることで自活できるようになったもの)の解剖を研究。1891 ドイツのライプチヒ大学に留学してプフェッファーを師事、植物生理学を学び、花粉菅と菌糸の屈化性の研究した。1895.5 ジャワ島視察を経て帰国し、東京帝国大学の生理学担当教授に就任、理学博士。このとき近代的な植物生理学、植物生態学をわが国に導入した。
 当時のヨーロッパの植物学を紹介する小冊子を著し、『欧州植物学輓近之進歩』で植物学には植物生理学・植物形態学・植物分類学・植物生態学の4区分があるとし、「Pflanzenbiologie」の訳語として「生態学」という新しい訳語を造り、生理学から区別した「植物生態学」なる画期的な言葉を発表して注目された。その関心は地衣類・セキショウ属の組織学的研究、硫黄細菌、鉄細菌、樹木の根圧、植物の病理、サクラ・ハナショウブの植物学から古典の研究など極めて広範囲にわたり、植物学の普及教育も行い、植物学の研究論文を100編以上、著書を100冊以上を刊行した。他にも『日本植物景観』の中で「景観」という言葉を生み出した。言葉の発明は地理学者の辻村太郎の『景観地理学講話』などにも使用されるなど多方面に影響を与え、日本の植物学の基礎を築いた。
 明治中頃に発見したコウシンソウ(ムシトリスミレ)の自生地があり特別天然記念物となっている。刊行した『人生植物学』(1918)には「昔は支那には桜は無いやうに思ったが、今日では多数の桜が西部併(ならび)に西南部の山中で発見された」「印度にはヒマラヤ桜(Prunus Puddum)と云ふ美しい種類があって、ヒマラヤの中腹に生えて居る。日本の紅山桜に似て、花が赤く、且(かつ)萼(がく)が粘(ねば)る」とある。このように桜と菖蒲の研究に関しての第一人者として知られ、殊に桜の研究の権威で「桜博士」とも呼ばれた。
 留学先のドイツで知った「Naturdenkmal」の保護の状況を紹介し、その訳語に「天然紀念物」をあてた。「記念物(デンクマール:denkmal)」の概念を広め、天然記念物保存事業の主唱者としても活動。「記念物」の語はその後「monument」の訳語にも使用され普及。環境保護の先駆者と称される。加えて希少植物の保存活動に尽力した。
 1918(T7)徳川義親が設立した徳川生物学研究所の評議員を務めた。'20 学士院会員に推され、'22 附属植物園長を兼ねた。'23 東京帝国大学を停年退官となり名誉教授。日本植物学会長も務めた。正3位 勲2等。享年77歳。

<講談社日本人名大辞典>
<小学館 日本大百科全書>
<世界人名辞典(東洋篇)>
<人事興信録など>


*墓石は和型「三好家之墓」、左面が墓誌となっている。「正三位 勲二等 理学博士 三好 學」とあり、行年は79歳と刻む。妻は美津子。長男の三好新 夫妻も眠る。

*長女の百合江(M29.9-)は津田績に嫁いだ。二女の綾江(M31.5-)は安藤正人に嫁いだ。三女の久江(M33.10-S48.10.30)は早川億利(8-1-2)に嫁いだ。

*西部併(ならび):正しくは「併」からニンベンを外した漢字


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