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はやかわ おくり

早川億利

はやかわ おくり

1899.8.30(明治32)〜 1963.5.31(昭和38)

大正・昭和期の実業家、銀行家

埋葬場所: 8区 1種 2側

 東京府日本橋区(東京都中央区)出身。早川松之助、美壽(共に同墓)の長男。1923(T12)家督を相続する。
 1923(T12)早稲田大学政治経済学部卒業。卒業後、エル・レイボルド商館に勤務する。勤務の傍ら、東海銀行貸付課長を務めていた養兄(父の松之助の養子)の早川芳太郎と共に、'18.12.6(T7)早川ビルブローカー銀行を創立し、芳太郎は専務(頭取)、億利は取締役に就任。'19.1.7 早川ビルブローカー銀行開業し、東株国債取引員となる。
 「ビルブローカー」(bill-broker)とは「手形仲買業者」(現在の短資業者)のことで、明治末から昭和初期にかけて「ビルブローカー」という名称をつけた銀行は10行あった。
 ビルブローカーのビジネスモデルは、「自己資本と銀行から取り入れたコール資金を元手に自己の計算で手形を売買する手取ブローカー(=手形を裏書する)」と、「単なる仲介、つまり他人の計算で手形を売買する仲介ブローカー(=手形を裏書しない。手軽に走り回るという意味でランニング・ビルブローカーとも呼ばれた」の2つある。日露戦争や第一次世界大戦の影響による戦時景気による金融緩慢と、不況下で貸出しの固定化した台湾銀行の大口取引が原動力になり、コール市場の規模が飛躍的に拡大し、1914以降、ビルブローカー業界は未曾有の繁栄を享受した。芳太郎と億利もこのブームに乗っての創業であり、主に手取りブローカーとして活動した。
 しかし、'27(S2)銀行経営の健全化を目的とする銀行法('28.1 施行)により、銀行の兼業とその役員の兼職が制限されると、既に公社債売買業務に注力していたビルブローカーは、これを止められず、5年間の猶予期間の終了とともに銀行であることができなくなった。これにより、早川ビルブローカー銀行だけでなく、早川らよりも先駆けて活動をしていた藤本ビルブローカー銀行や柳田ビルブローカー銀行などはいずれも廃業した(なお、'30 芳太郎は東京米殻取引理事となり翌年理事長に就任している)。
 '28 紺綬褒章を賜う。享年61歳。

<大衆人事録 東京篇>
<人事興信録>
<日興証券(株)『五十年史』>


墓所 墓所

*墓石は和型「早川家之墓」、裏面「昭和八年二月十日 早川億利 建之」。左面と右面が墓誌となっている。「玉顔水子」(M27.7.25寂)の刻みから始まり、早川千枝(M29.8.25寂)と姉の刻みがあり、父の松之助(T12.9.28寂)、娘の恵美(T13.7.6寂)、母の美壽(M1.7-S24.10.17寂)、億利、妻の久江(M33.10-S48.10.30)が刻む。妻の久江は植物学者の三好学(8-1-10-26)の3女。右面は長男の早川松壽(T15.1-H7.8.9)、松壽の妻の和子(T6.10-)、二男の早川陽之介(S2-H14.7.29)が刻む。妻の和子の父は養兄の早川芳太郎の長女。

墓所 墓所

*墓石右側に早川松壽の碑が建つ。碑は石の地球儀が乗り、台座に「VERNON M.HAYAKAWA / 松壽 早川 / 1926-1995」と題し、「旅行を通して外国を研究し世界中の人々と交流するために氏が生涯を通して、訪問した国は152ヶ国にのぼります。氏は冒険を愛した真のコスモポリタンであり、世界中に多くの友人を作りました。ハンス K マイスナー」と書かれており、アジア38、アフリカ20、アメリカ40、オーストラリア・パシフィック20、ヨーロッパ43 の国と地域の名称が刻まれている。碑石の裏は「ニ〇〇一年 八月吉日 早川和子 建之」が刻む。


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