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みとみ きょうよう

三富朽葉

みとみ きょうよう

1889.8.14(明治22)〜 1917.8.2(大正6)

明治・大正期の詩人

埋葬場所: 6区 2種 22側

 長崎県壱岐出身。本名は義臣。道臣・マツ(共に同墓)の長男。父は壱岐石田郡長を務めた人物。1896(M29)4月、7歳の時に渡良村の三富本家の伯父三富浄の戸籍上養子となるも、同月、実父母と共に上京した。
 フランス系列の暁星中学校に入学し、このころから「新小説」「文庫」などに短歌や詩を投稿した。早稲田大学高等予科文学科に入学し、西条八十らと雑誌「深夜」を発行。1908(M41)早稲田大学英文科へ進学。 '09人見東明、加藤介春、今井白楊、福田夕咲らと「自由詩社」を結成し、口語自由詩を唱道した。 象徴主義の影響を受けた倦怠的・耽美的な詩を、機関誌「自然と印象」、「早稲田文学」等に発表し、その口語散文詩は、先駆的作品として評価された。 '10頃からマラルメやランボー、ヴェルハーレンなど19世紀末のフランス近代詩人の影響を受け、フランス象徴派詩人の研究や翻訳を行なった。 '17(T6)あと12日で28歳の誕生日を迎えることにになったであろうその年の夏の日、詩友の今井白楊と避暑のため訪れた三富家別荘のある犬吠岬崖下、君ヶ浜で遊泳中、高波にさらわれ今井白楊と共に溺死した。
 没後、'18実父の三富道臣により哀切の文字を刻んだ「涙痕之碑」が千葉県銚子市犬吠崎君ケ浜灯台下に建立された。また、'26文学の友であった増田篤夫によって編まれた遺稿集『三富朽葉詩集』が発表された。 この詩集は三部立てになっており、「第一詩集」は、自由詩社結成後2年あまりの間に発表した作品が主。第二詩集「營み」は象徴詩人の面目が色濃く現した。 第三詩集「生活表」は、象徴主義の深さを感じさせる散文詩が収められており、口語散文詩の先駆といわれた。

<コンサイス日本人名事典など>


*墓石左面に「朽葉三富義臣」として刻む。

*朽葉のヨミを「くちは」とするものもある。

*長崎県壱岐は、福岡県と対馬の中間地点で玄海灘に面し、福岡県博多港から郷ノ浦港まで西北76km、佐賀県呼子港から印通寺港まで北26kmの位置する総面積138.45km²の、全国で20番目に大きい島である。現在は壱岐市。


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