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まゆやま まつたろう

繭山松太郎

まゆやま まつたろう

1882(明治15)〜 1935.5.21(昭和10)

明治・大正・昭和期の古美術商

埋葬場所: 22区 1種 7側

 1905(M38)単身北京崇文門内に渡り「龍泉堂」北京支店を開業し古美術商を始める。龍泉堂という屋号は「龍泉窯青磁」に因んで名づけた。 青磁の鑑定は最も難しいとされ、青磁の目利きは美術商としての信頼であるとされていた。主に中国の古い陶磁器を買い付ける店であり、また当時の北京では鉄道工事の際に多くの美術品が出土し世界的に注目されていた。
 北京での古美術売買の知識を有し、茶道具中心の道具商や骨董商しかなかった日本に、美術商という新しいジャンルを持ち込む決意を固める。1916(T5)東京銀座に繭山龍泉堂を創業。 '20京橋に移転。'23帝国ホテル開業に伴いホテル内にジュエリー専門店を開設した。昭和に入ると、国内で鑑賞陶器が流行し繭山龍泉堂は注目され日本で指折りの古美術商の地位を築くことになった。 北京で同時期に古美術商をし、同じく日本に進出した山中定次郎の山中商会とともに日本の二大中国古美術商とされる。享年53歳。
 松太郎没後は長男である繭山順吉(1913-1999.9.16 同墓)が跡を継ぎ、中国陶磁を中心として東洋古美術品を取扱い、戦後は米国に日本美術の名品を紹介し、世界の美術館や富豪、コレクターから「MAYUYAMA」の名は世界に知られていった。 '76名品を集録した『龍泉集芳』、'88順吉著の『美術商のよろこび』、'98(H9)順吉が編集し『古美術商繭山松太郎と鑑賞陶器の世界』を刊行。

<「繭山龍泉堂 百年のあゆみ」など>


自然石 墓所

*墓石は和型「繭山家之墓」。右側に墓誌があり、松太郎の戒名は龍泉院照顕居士。順吉の戒名は龍法院釋信順。

*墓所左側に繭山松太郎の辞世の句碑が建つ。


辞世の句

 昭和10年5月、繭山松太郎 辞世の句。郷里富山八尾の光西寺に鐘を寄付した折、鐘が完成した知らせを聞いて入院中の東京の聖路加国際病院で詠んだ句。その後21日に亡くなる。 メモ用紙に鉛筆で書かれた自筆を石に刻み、8月に長男繭山順吉が墓を建て墓石のとなりに設置した。このとき繭山順吉は21歳であった。

 ゴーン〜と鳴る鐘の 音色は弥陀の聲 悦んで働け ごく楽になる

(ごーんとなる かねのねいろは みだのこえ よろこんではたらけ ごくらくになる)


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