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まゆやま じゅんきち

繭山順吉

まゆやま じゅんきち

1913.11.22(大正2)〜 1999.9.16(平成11)

昭和・平成期の古美術商(繭山龍泉堂)

埋葬場所: 22区 1種 7側

 富山県出身。富山赤十字病院にて生まれる。父・繭山松太郎、母・美代(共に同墓)の長男。父母が中国陶磁の仕入れ先の北京に在住していたことから、この時代の北京の呼び名であった順天府の順と、松太郎の父の繭山吉郎左衛門の吉から順吉と名付けられ、3歳まで同地で育つ。
 1916(T5)父の松太郎が東京に繭山龍泉堂店舗を構え、ここから順吉は京橋区立宝田小学校(中央区立上等小学校)、東京市立第一中学校(九段高校)に通う。卒業後すぐ、1931(S6)17歳の時、父が店主を務める同店に入店。先輩店員と寝食を共にし修行に励む。
 4年後、'35.5父の松太郎が54歳で他界。21歳にして母の美代を助け、4人の妹弟が進学できるよう家業に勤しみ長男として家長の務めを果たす。'40越智敏恵(同墓)と結婚、二児の父となる。戦争の大厄に会いながらも、父の松太郎の切り開いた道から更に力強く進み、信頼を引き継ぎ数々の名品を取り扱う。終戦後は積極的に鑑賞美術を海外に紹介し、欧米からは「MAYUYAMA」として知られるようになった。中国鑑賞陶磁器の黄金期を生きた、昭和を代表する日本の古美術商。
 株式会社繭山龍泉堂社長のちに会長、東京美術倶楽部取締役、東京美術商協同組合理事長、相談役を歴任。享年85歳。

<物故者事典>
<「繭山龍泉堂 百年のあゆみ」>


自然石 墓所

*墓石は和型「繭山家之墓」。順吉が設計し建之。裏面に「昭和十年八月繭山順吉建立」と刻まれている。右側に墓誌があり、松太郎の戒名は龍泉院照顕居士。順吉の戒名は龍法院釋信順。墓所左側に繭山松太郎の辞世の句碑が建つ。1955(S30)美代の死後、多磨墓地内他区画より現在の区画に移る。


辞世の句

【繭山松太郎の辞世の句碑】
 郷里富山八尾の光西寺に寄付した鐘が完成した知らせを聞いて、入院中の東京の聖路加国際病院でこの句を詠んだ後、21日に亡くなる。メモ用紙に鉛筆で書かれた自筆を石に刻み、8月に長男の繭山順吉が墓とともに建之した。

 ゴーン〜と鳴る鐘の 音色は弥陀の聲 悦んで働け ごく楽になる

(ごーんとなる かねのねいろは みだのこえ よろこんではたらけ ごくらくになる)


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