京都出身。1913(T2)プロ・ビリヤード界に入り、'17渡米、'24全米ジュニア選手権を獲得した。
'34(S9)には全米スリー・クッション選手権大会に出場して優勝したほか、'36帰国するまで前後五回にわたって世界選手権大会で入賞した。
その後は国内で活躍したが、'52サンフランシスコで開催された世界選手権大会に参加して第二位となり、翌年の同大会では第六位を獲得した。
東京世田谷の下北沢付近で「松山ビリヤード・クラブ」経営中、'53(S28)2月20日狭心症のため死去した。
渡米後時に金嶺松山と号し、この名で撞球技大会で活躍し全世界に雷名を轟かし世界撞球史に不滅の歴史を刻んだ。
19才の若さで単身アメリカに渡り、困苦に堪えて生活する中、撞球技と出会い着々と力をつけ名手となる。
1926(T15)世界撞球技選手権で二位の名誉ある金字塔を打ち立てた。在米18年間で全米ならず全世界に撞球技名人とし名を馳せ、38(S13)凱旋帰国した。
太平洋戦争終了後も二回に渡り、アメリカビリヤーズコングレスの招致を受けて渡米し、世界選手権大会に参加した。
53再び世界第二位にランクし日本人として全世界にグレート松山の名を轟かしたが、同年の12月20日に日本撞球技界の国宝と謳われた金嶺松山は他界した。
*墓所内に墓誌があり、その裏面は略碑となっている。なお、左隣の墓所は作家の江戸川乱歩(平井家)の墓所である。
*19歳の若さで単身渡米にあたり、本名の「松山為俊」の発音は難しいであろうと考え、アメリカ国民に馴染みが深いマッキンレーの韻を踏んで名前を「松山金嶺」(まつやまきんれい)としました。
*ビリヤードの歴史は山田浩二(19-1-6)のページへ
第359回 日本ビリヤード界の天才 日本スリークッションの父 松山金嶺 お墓ツアー
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