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まつむら よしお

松村喜雄

まつむら よしお

1918.9.16(大正7)〜 1992.1.10(平成4)

昭和期の外交官、推理作家、推理小説評論家

埋葬場所: 12区 1種 6側

 東京牛込出身。三谷幸夫、花屋治の筆名もある。実母が江戸川乱歩(26-1-17-6)、平井蒼太兄弟の従妹。よって親戚として幼少期より平井家と交流した。
 早稲田実業学校を卒業し、東京株式取引所に勤務。勤務の傍らフランス語を独習。のち編入試験を受けて東京外国語学校仏語科に入る。卒業後、外務省に入省。
 戦時中は徴兵を逃れる目的でベトナムのハノイに赴任し、フランス語の探偵小説の原書を読み耽る。公務の傍ら文筆活動をおこない、戦後、1948(S23)三谷幸夫の名義でヴォルテールなどを翻訳した。'58 都筑道夫と共にシムノンの『霧の港』などを翻訳し、探偵倶楽部、宝石に発表。'61 花屋治の筆名で本悪推理小説や国際情報小説を書き、『紙の爪痕』は第7回江戸川乱歩賞候補となった。
 '66 ラオス大使館、次いでサンフランシスコ総領事館などに勤務。6年半にわたる在外勤務の間、多忙によってほぼ休筆状態となったが、フランス語ミステリー小説の原書収集は怠らなかったという。
 1970年代後半からフランス語ミステリー小説に関する原稿を「幻影城」に連載。『マネキン人形殺害事件』などの翻訳を通じて、日本にスタニスラス=アンドレ・ステーマンの作品を紹介した。
 '78 外務省を退官。以降は文筆業に専念し、著作物は本名で発表した。'85 多数の原書を読破した経験に基づいてフランス語ミステリー小説の通史を緻密に纏め上げ、これを『怪盗対名探偵』の題名で発表。これは翌年、第39回 日本推理作家協会賞(評論部門)を受けた。以後は主に長篇推理小説を執筆するようになる。また、外務省勤務時代の経験に基づいて『謀殺のメッセージ』を発表。この作品は週刊文春の「傑作ミステリーベスト10」の第6位に選ばれた。
 晩年は「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」に評論を連載。信濃毎日新聞に月2回の書評を発表。江戸川乱歩賞の予選委員をも務めた。また『乱歩おじさん―江戸川乱歩論』(1992)を発表し、巨匠の素顔を伝える興味深いエピソードを交えつつ、乱歩の仕事の意味を明らかにした。腎機能不全で逝去。正5位 勲5等。享年73歳。

<講談社日本人名大辞典>
<著者略歴>


*墓石は和型「松村家之墓」、裏面「昭和五十四年十月 松村喜雄 建之」。左面が墓誌となっており、「正五位 勲五等 松村喜雄」が刻む。妻は多美(H28.5.12歿 享年93歳。


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