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まつもと こくふう

松本國風

まつもと こくふう

1889.4(明治22)〜 1960.3.21(昭和35)

大正・昭和期の詩歌吟詠家

埋葬場所: 3区 1種 23側
生玉霊園へ改葬

 東京出身。本名は松本國男。父は教育家で弁護士の松本郡太郎(同墓)、長男として出生。大阪歯科医学専門学校卒業後、大阪西区に於いて歯科医業を開設する。 少年時代より中村錠之助に吟詠の基礎を学び、日夜研鑽練磨吟法作符に心血を注ぎ、22歳の時に京都市岡崎の地に琵琶と詩吟の道場を創設したのが『詩歌吟詠國風流』創立の始まりであると云う。 これにより、歯科医師から詩歌吟詠家へ転身し『詩吟道 日本國風流』を立て家元となった。
 日露戦争で活躍した海軍中将で伯爵の小笠原長生らに愛され、詩吟道日本國風流が広く発展した。 「國風」の吟号は小笠原長生の命名とも伝えられている。大正昭和と吟界の草分け、重鎮として君臨し、詩歌吟詠國風流は全国に門下を擁し、吟道を通じ社会人心の醇化と民族美徳の昂揚に貢献した。 晩年、横浜で雨宮國風という人物が「日本國風流」と良く似た名前の詩吟の会を創立したことを、弟子の一人が耳に入れ、國風に「差し止められては」と言った所、「まあ別によかろう」と言い、その胆の太さに感嘆したという逸話がある。 享年71歳。戒名は顕正院國風日英居士。
 没後、如今追憶七星霜を閲す茲に門下生の手により松本國風の偉業を称え、吉野山中千本に「詩吟道日本國風流始祖松本國風師頌徳碑」の碑文を建立した。 國風が没した後当家に流派継承者がいなかったが、現在も関西中国地方を中心に展開され、2006(H18)には大阪リーガロイヤルホテルに大阪府知事・大阪市長を来賓に迎え、創流95年記念式典が挙行された。

<吉野山中千本にあるの碑文>
<ご遺族様より情報提供>


濱地家および松本家の墓所

*墓誌には『独自の吟法を以って明治大正昭和の吟界に君臨し 幾多の門弟を育成せし 日本國風流宗家松本國風此地に眠る。』と刻む。

*墓所右側の濱地家は親戚筋であり、女医教育者である濱地藤太郎らが眠る。松本國風の妹である富美子が濱地藤太郎に嫁いだたため、國風と藤太郎は義理の兄弟となる。

*松本國風や濱地藤太郎が詩歌吟詠家や女医教育者として活動した拠点が大阪周辺地域であったにも関わらず、墓所地を東京の多磨霊園に建墓した理由は、國風や藤太郎の妻であり國風の妹の富美子が若い日を楽しく過ごした「帝都東京」を懐かしんでの事と推測される。
<ご遺族談>

*ご遺族様のほとんどが大阪在住であることと、ご年配であることから、松本家および濱地家の墓所は2007年11月24日に改葬奉告祭を行い、多磨霊園(3区1種23側)から大阪へ改葬。なお、松本家は大阪市天王寺区の生玉霊園へ改葬。

*写真は多磨霊園の写真であり、左が松本家で右が濱地家。写真はご遺族様よりご提供して頂きました。また貴重な情報も頂戴いたしました。この場をお借りし感謝申し上げます。なお、「歴史が眠る多磨霊園」は著名人をきっかけとして当時の歴史、その人物などを通して学ぶということがコンセプトであるため、ご遺族のご許可を取った上で、松本郡太郎、松本國風、濱地藤太郎のページを残すことにします。


生玉霊園

※2023年「冊子・松本国風師」発行にあたり協力させていただきました。その際、大阪市天王寺区の生玉霊園で撮影された松本家の墓碑の写真(令和4.11.7撮影)を提供していただきました。北田光男様、ありがとうございました。


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