石川県金沢出身。金沢藩剣術指南の家に生まれる。1877(M10)父の死去に伴ない14歳にして家督相続。
師範卒業後、富山県の役人となり、英語が堪能であったことから、富山稲荷町・柳町等の有志者の依頼を受け、潜克小学校内で英学会を開設し指導にあたった。
また、1887(M20)頃、県収税部の下級役人であった時に、私立富山英語学校3代目(最後の)校長を勤めた。
学校の経営難により教場を失い、その後、小学校などを会場にした出前講習にしばらく従事したものの、やがて意を決して上京。現在の明治大学にて法律を学び、弁護士となる。
東京の神田駿河台に居を構え「松本郡太郎法律事務所」を開設。弁護士としてのランクは最上位であり、敏腕でよく繁盛したとの事。
1902特許代理業者に登録。政界進出の野心もあり、1912(M45)衆議院議員選挙に合わせて石川に帰り、立憲政友会を自称して立候補した。
大臣経験もある政治家の中橋徳五郎や同郷の思想家の三宅雪嶺の支持を受けたと称し、河北・羽咋を地盤に選挙戦を戦ったが落選。
立候補者中最も多くの選挙違反者を出したとされる。
プライベートでは、1888(M21)高岡市堀上町の芳野小春(1870〜1955.3.24 同墓)と結婚。二男一女を儲ける。
長男の松本國男(同墓)は歯科医師から詩歌吟詠家へ転身し日本国風流を立て家元となった。
次男の松本國威(1894〜1945.6.26 同墓)は大阪商船から脱サラして起業するも、太平洋戦争にて召集され、ビルマに於いて戦死。
娘の富美子は耳鼻科医師で関西女子医専創立者の濱地藤太郎(右隣りの墓)と結婚した。晩年、郡太郎は子供達のいる大阪に転居。
享年54歳(墓誌には享年56歳と刻む)。戒名は大法院顕義日行居士。
*名を群太郎との表記する書物もある。墓誌には郡太郎と刻む。
*晩年松本郡太郎は大阪に転居し、また子の松本國風や娘婿の濱地藤太郎が詩歌吟詠家や女医教育者として活動した拠点が大阪周辺地域であったにも関わらず、墓所地を東京の多磨霊園に建墓した理由は、國風や藤太郎の妻であり國風の妹の富美子が若い日を楽しく過ごした「帝都東京」を懐かしんでの事と推測される。
<ご遺族談>
*ご遺族様のほとんどが大阪在住であることと、ご年配であることから、松本家および濱地家の墓所は2007年11月24日に改葬奉告祭を行い、多磨霊園(3区1種23側)から大阪へ改葬。なお、松本家は大阪市天王寺区の生玉霊園へ改葬。
*写真は多磨霊園の写真であり、左が松本家で右が濱地家。写真はご遺族様よりご提供して頂きました。
また貴重な情報も頂戴いたしました。この場をお借りし感謝申し上げます。
なお、「歴史が眠る多磨霊園」は著名人をきっかけとして当時の歴史、その人物などを通して学ぶということがコンセプトであるため、ご遺族のご許可を取った上で、松本郡太郎、松本國風、濱地藤太郎のページを残すことにします。