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ますい とくお

増井徳男

ますい とくお

1915.6.21(大正4)〜 2001.10.7(平成13)

昭和・平成期の実業家(紀ノ国屋)

埋葬場所: 8区 1種 4側

 東京出身。青果物商「紀ノ国屋」を営む増井浅次郎、とく乃(共に同墓)の長男。
 東京府立第一中学校を中退し、家業の青果物商(紀伊之國屋文左衛門総本店:紀ノ国屋)の手伝いを始める。店内に設置した冷却システム「紀文式低温貯蔵庫」により、宮内省御用達を拝命したことだけに留まらず、冷えた果物をお届けすることで官庁などから大量注文を受けるなど盛況となる。1937(S12)徳男が父の浅次郎に代わり店主となる。太平洋戦争中、物資統制令のもと「よい果物を扱えない」ことから、宮内省御用達を返上し東京青山の店を閉鎖。家族で疎開をしていたが空襲により店は焼失した。
 '46.9 戦後、りんご農園の復興に立ち上がった対馬竹五郎が青森県りんご協会を創立し、戦前から東京を代表する果物店を営んでいた徳男に青森りんご協会東京出張所長の打診があり受けた。同.11.24 進駐していたGHQから、軍人やその家族が食べるりんごの納入について、青森県のりんごの取りまとめ役に抜擢される。肥料の資金調達、収穫後のアメリカ式の箱詰め、輸送、搬入など困難を乗り越えながら苦心したが、アメリカ式の搬入方法では長時間の輸送でりんごが凍結や劣化するなどし、結果的に納入拒否となった。'47.11(S22)逆にその失敗が契機となり、自己流の搬入式に切り替え、りんごを活用して紀ノ国屋の再建に乗り出し、青果物統制撤廃と同時に千代田区有楽町有楽会館内において、「紀文」として仮店舗営業を再開した。当時、並木路子の「りんごの唄」の曲のヒットとともに、りんごが飛ぶように売れた。
 '48.1 株式会社紀文を設立。同.10 貿易庁(通産省)との契約で米第八軍に果物、西洋野菜を納入(〜'56.4)と順調であり、同.12 株式会社紀ノ国屋に商号を変更した。'49 創業地の青山に果物と清浄野菜を扱う小売店として再建。東京都指定の清浄野菜販売所第一号を取得した。'52 父の浅次郎が亡くなる。
 戦後、リンゴ納入や清浄野菜の栽培指導を通じて米軍との接触が深くなる。あるとき米軍基地内のPX(post exchang:軍隊内で飲食物や日用品などを売る店=大規模なスーパー形式の売店)を見る機会があった。その店内の商品数に圧倒され感動し、やがて日本でもこのような販売方法がやってくることを確信。'53 日本初のセルフサービス方式の食料品専門のスーパーマーケット紀ノ国屋に業態を転換しオープンした。
 これに伴い、当時としては珍しい試みも行う。当時の買い物は八百屋や魚屋など各小売店に出向いて購入するスタイルであり、店主と会話をしながら品物を選び、溜め銭と呼ばれるザルにお金を入れて代金のやり取りを行う対面販売が主であった。紀ノ国屋はガラスのウインドウで仕切られ出入り口のドアがある構造にした。店内は野菜、果物、肉、魚、缶詰などを全てひとつのフロアーに陳列し、対面をしないかわりに品物の値段や産地などを記入(プライスシールやプライスカードなどのポップ広告)し購入の判断をお客に委ねた。購入する商品はそれまで日本になかったショッピングカートを採用したが、米軍基地で使用しなかくなったものをかき集めても5台しか手に入れられず、わざわざアメリカから輸入したという。そして出口近くにチェッカーのいるレジで精算。レジの正確さやスピード、サービスなどの教育が徹底された。購入した品物をクラフト紙の紙袋に入れる。これも初めての試みであった。またガラス張りのウインドウにデコレーションを施すなど、当時としては画期的な手法も取り入れた。
 今では当たり前であるが全てのシステムが初の試みであり、日本人にとって馴染みがなく珍しすぎたため客層はスーパーマーケットが日常である在日アメリカ人がほとんどであり、日本人の反応はイマイチであった。むしろ、あまりにも見慣れない欧米的な外観にドルしか使えないのではないかという噂も出、また入口のドアが入りづらい上に、入店する抵抗感もあったという。しかし、ドアがあることがゴミが店内に入らないようにする衛生面や安全面への配慮であることや、自分で品物を選べる喜びを経験していくにつれ、日本人にも徐々に受け入れられるようになった。その後も、'56.10 製パン部門を新設し、日本初のインストア・ベーカリーを開設。'58.3 日本セルフ・サービス協会を設立し、初代会長に就任。'60.12 精肉部門を新設し、肉のプリパック販売を開始。冷凍ケースをアメリカから輸入し、冷凍食品の販売も始めた。
 '63.3 東京オリンピック開催に向けて道路拡張により、従来の店舗を取り壊し、地下一階地上三階建ての鉄筋コンクリートの新店舗を開設。'64.5 フランスから空輸したナチュラルチーズの販売を開始。同.8 ラム肉を日本で初めて販売。同.11 初の外国フードフェア(カナダ)を開催した。'74 紀ノ国屋ミートセンターを設立。'75 日本の流通業の近代化に貢献した功績により藍綬褒章を受章した。
 '76.9 青山店増改築工事が完了し、店名を「インターナショナル」と改め、サービスデリ部門を新設した。オープン記念に、日本で初の「ボーナス・クーポン」(品目指定割引券)を配布。様々なチャレンジのもと、良質な品々を提供し、高級食料品店「紀ノ国屋」として店舗を拡大した。享年86歳。2010.2(H22)創業100周年を迎えた。

<講談社日本人名大辞典>
<朝日人物事典>
<「青山紀ノ国屋物語-食の戦後史を創った人」平松由美>
<東京今昔物語-企業と東京-青山に育まれて…紀ノ国屋>


*墓石は和型「増井家之墓」、裏面「昭和九年五月 増井浅次郎 建之」とあり、「明治四十四年八月 二十六歳ニテ和歌山縣伊都郡九度山町ヨリ上京」と刻む。左右面は墓誌となっている。左面は19歳で亡くなった増井廣昌に柔道四段と刻む。22歳で亡くなった増井實には中華民国上海東亜同文書院大学校・剣道二段と刻む。27歳で亡くなった増井福重にはニューギニア島ボイキンに於て戦死・陸軍准尉と刻む。父の増井浅次郎の戒名は誠諦院日文居士。浅次郎の妻で母は とく乃(S37.5.21歿)が刻む。右面は増井徳男と妻の咲子(H10.1.19歿)が刻む。増井徳男の戒名は浄覺院日徳居士。



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