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ますい あさじろう

増井浅次郎

ますい あさじろう

1886.4.26(明治19)〜 1952.11.5(昭和27)

明治・大正・昭和期の実業家(紀ノ国屋)

埋葬場所: 8区 1種 4側

 和歌山県伊都郡九度山町出身。増井元次郎、クスの二男として生まれる。
 1910(M43)上京。同.2.16 東京青山に果物店「増井浅次郎商店」を創業。毎日、大八車を1日10銭で借りて、市場から果物や野菜を仕入れ曵き売りを始めた。働き者で、泥芋の皮をむいて洗ったものを出し、野菜の葉を剥がし常に一枚目から食べられる状態にしておくなど、お客様目線での商売により、得意客が増えていった。
 '13.3(T2)父川とく乃と結婚、これを機に、青山交差点に店を構え、改めて果物店「増井浅次郎商店」を開業。店主の方針は、「良い物を売ること。悪い物や傷んでいる物は売らない。古い物は絶対に売らない。そもそも物を売るんじゃない、信用を売るのだ。だから人との約束は絶対に破ってはいけない」であった。
 '15.3 立地を生かし顧客獲得のために、2名の従業員を雇い、宮様や華族、高額所得者の邸宅へ御用聞き廻りで得意先獲得に動いた。同.6 長男の徳男(同墓)が誕生。同.10 店を高級住宅街に近いお邸町の北青山三丁目に移転し、屋号を「紀伊之国屋」と改め再開業。
 '21.2 東京の果物屋としては最初の「電気冷蔵室」を設置。米国フリック社製で岩谷冷蔵庫から購入し、店の真ん中に4坪の大きな地下室を作った。この冷却システムは「紀文式低温貯蔵庫」と名付けられ、紀伊之国屋はいつも冷えた果物を売る店として大評判となる。買い物をせずに見学だけに来る客も多数いたという。この冷蔵庫を活かして、アイスクリームの製造販売も開始した。当時のアイスクリームは高価な商品で珍しいため、アイスクリームを盛る器やスプーンは、純銀製の高級品を使った。じわじわと口コミで広がり、電車に乗って遠方からアイスクリームを買い求める客が来るようになった。特に病人に食べさせたいとお見舞い品として売れた。
 '24 屋号を「紀伊之國屋文左衛門総本店」と改める。普段は略して「紀文」で通った。'30(S5)宮内省御用達を拝命。昭和天皇に召し上がっていただく食べ物を納めできる果物商として「門艦」(門の出入りの許可証)の名誉を受ける。
 '31 どこよりも早く配達をするためにオートバイ「イワサキ号」を購入。'32 さらに当時まだ少なかった自動車(ダッジブラザーズ)を購入し、冷えた果物をまとめて一度に配達できるようにしたことで、官庁関係者のお得意様からの大量注文が増えた。夏場は冷えたスイカが人気商品であった。お昼から夕方にかけて大量注文による多忙な日が毎日のように続いたため、'37 長男の徳男が父の浅次郎に代わり店主にさせ引き継がせた
 戦争色が色濃くなり始めてくるにつれ、食料品などの物資不足になり、政府は配給制度を導入し物資統制令を出した。これにより闇値などが横行し高額な値段でないと良質な物を仕入れることができなくなった。宮内省からは「一般と同じ品物の納入でよい」という連絡があったが、天皇陛下や宮様方に召し上がっていただく果物が一般市民と同じものでは如何にも恐れ多く、闇値で仕入れてお納めしては申し訳ないと感じ、「よい果物を扱えない」ことから店を任せていた徳男と協議して東京青山の店を閉鎖することを決めた。
 これにより、'41.11 宮内省御用達を返上するため、宮内省に「門艦」をお返しするために伺った。宮内省はその意を受け止めたが、戦争が終わったらまたお願いしたいと「門艦」を保管しておくようにと伝えられたという。享年66歳。

<東京今昔物語-企業と東京-青山に育まれて…紀ノ国屋など>


  *墓石は和型「増井家之墓」、裏面「昭和九年五月 増井浅次郎 建之」とあり、「明治四十四年八月 二十六歳ニテ和歌山縣伊都郡九度山町ヨリ上京」と刻む。左右面は墓誌となっている。左面は19歳で亡くなった増井廣昌に柔道四段と刻む。22歳で亡くなった増井實には中華民国上海東亜同文書院大学校・剣道二段と刻む。27歳で亡くなった増井福重にはニューギニア島ボイキンに於て戦死・陸軍准尉と刻む。増井浅次郎の戒名は誠諦院日文居士。浅次郎の妻は とく乃(S37.5.21歿)が刻む。右面は増井徳男と妻の咲子(H10.1.19歿)が刻む。増井徳男の戒名は浄覺院日徳居士。



第255回 紀ノ国屋創業者 増井浅次郎 お墓ツアー
昭和天皇の果物専門掛から日本初のスーパーマーケットへ


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