長野県東筑摩郡坂北村(現在の筑北村)出身。増田留吉の三男。松本中学校、松本深志高校を経て、第八高等学校に入るが中退し、1919(T8) 早稲田大学専門部卒業。さらに、'22 京都帝国大学法学部英法科卒業。京都大学での余りの成績の良さに高等文官試験を経ず内務省に採用され内務省に入省。なお採用後に高等文官試験を受験し合格している。
本省勤務時には欧米各国を視察。また関東大震災や二・二六事件を経験。二・二六事件では戒厳令下で矢継ぎ早に発布した勅令起案を担当。軍部の事態収拾に向けた煮え切らない対応に憤慨しつつ生々しい経験を積む。また満州統治に関する対満事務局課長として活動した。
その後、突如胃潰瘍を患い休職。寝たきりで療養中に空襲で被災する中、必死で逃げている際に、胃潰瘍は治癒し奇跡的に病気が快復した。これにより内務省に復帰。
'45.10.27 第42代 福島県知事に就任。官選であったが終戦後初の知事であった。在任期間はわずか六カ月にに過ぎなかったが、その間、アメリカの供出問題などで苦労した。
'46.4.25 第30代 北海道長官に就任(官選)。十か月足らずの在任であったが、在任中は拓殖行政分割に強く反対し、また道民の生活の基盤である燃料確保に全力挙げた。一方、道議会の休会中に、議員の共米懇請班を組織し、米作地帯を巡回した。
北海道長官時代に日本炭鉱労働組合、国鉄労働組合によるストライキが頻発したが、屈しない姿勢で対応をした。この姿勢が首相の吉田茂に注目され、'47.1.31 内閣改造の際に代議士でないにも関わらず運輸大臣に抜擢され初入閣した。これに伴い、同.2.4 北海道長官を辞任。
また、同.4.25 第23回衆議院議員総選挙に民主自由党公認で長野県4区から立候補し当選(以後当選10回)。大臣の身でありながら初めての公選に挑んだ選挙では、「間もなく増田甲子七が演説を始めます。声は悪いし演説は下手で、万が一漬物が腐るようなことがあれば申し訳ないから、漬物樽の蓋はしっかり閉めておいてください」という逆説的に有権者の好奇心を誘うような前触れを行った結果、街頭演説に多くの有権者を集めたと回想している。同.5.3 憲法改正後も運輸大臣を留任した。
'48.10.19 第二次吉田内閣では労働大臣に就任。'49.2.16 第三次吉田内閣で内閣官房長官に就任(〜'50.5.6)し、同.6.1 国務大臣 初代 北海道開発庁長官を兼任した。この年に下山事件が起こるが、国鉄総裁の下山定則(21-1-16-6)が人員整理に悩んでいた際のよき相談相手であった。'50.5.6 益谷秀次の後を継いで建設大臣も兼任した。同.6.28 第三次吉田内閣で憲政史上初の改造内閣が行われた際は建設大臣と国務大臣 北海道開発庁長官を留任。'51.6.7 建設大臣を免官し、国務大臣 賠償庁長官に就任した。同.7.4 第2次改造内閣では自由党幹事長に就任しサンフランシスコ講和条約に向けて野党との交渉に尽力した。同.9.8 サンフランシスコ講和条約締結し、日本はGHQによる占領体制が終わり国際社会に復帰。
'53.5.21 吉田茂退陣後、自由民主党に参加。吉田政権下で閣僚を長く務めたが、その後、公職追放解除で大物政治家が政界に復帰したこともあり、'55.2.27 第27回衆議院議員総選挙で落選。'58.5.22 第28回衆議院議員総選挙ではトップ当選で返り咲いた。
'66.12.3 第一次佐藤栄作内閣(第三次改造)で防衛庁長官に就任。'67.2.17 第二次佐藤内閣でも防衛庁長官を留任。在任中に母校である松本深志高等学校の男子生徒11名が死亡した西穂高岳落雷遭難事故では、救援活動の指揮を執った。また学校葬ではOBとして弔辞を読んだ。
'68.10.21 新左翼による暴動事件「新宿騒乱」前夜に、過激派学生が防衛庁を襲撃し、これに対し平和と秩序を守る自衛隊の本拠が暴力学生に占拠されては、国民に不安を招くとして、隊員に武装させて立哨を命じた。同.11.30 佐藤内閣第二次改造の際に防衛庁長官を退いている。同年 勲一等旭日大綬章を受章。'70.11 メキシコの大統領に当選したルイス・エチェベリアの就任式に出席する特派大使に任命されメキシコに訪問。
'72.12.10 第33回衆議院議員総選挙で落選。これは松本経由で富山に抜ける新幹線構想が、上越新幹線構想に負けるという結果が重なったことが要因とされる。'76.12.5 第34回衆議院議員総選挙で当選し返り咲いた。'79.10.7 第35回衆議院議員総選挙には出馬せず政界を引退。12回の選挙を戦い10回の当選回数であった。引退後は、弁護士の傍ら、自民党全国国会議員会会長として活躍した。
自他ともに「明治の硬骨漢」と称され、酒、タバコを一切やらず、敬虔なキリスト教徒でもあったことから暴力や脅迫に対しては生涯、剛直に対処した。'84 『増田甲子七回想録 吉田時代と私』を出版。
'85.12.21(S60)午前2時40分、就寝中に電気ストーブと蒲団が接触して発火したことが原因で自宅が火事になり、妻の 江ん(同墓)を探しながら焼死するという最期を遂げた。享年87歳。贈正三位。郷里の長野県筑北村に増田甲子七の銅像が建つ。