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まきた ひさお

槇田久生

まきた ひさお

1909.12.13(明治42)〜 1989.4.24(平成1)

昭和期の実業家(日本鋼管)

埋葬場所: 3区 1種 25側 10番

 佐賀県出身。旧姓は大谷。長崎県で育つ。長崎師範附属小学校に通っている時に母の兄のもとに養子となり、槇田の姓となる。同時に東京の牛込北町愛日小学校に転校。東京府立第一中学校に入学、同級生に牛場信彦(後に外交官)、浅村廉(後に官僚・財界人)らがいた。
 東京商科大学(一橋大学)予科の不合格となり、商学専門部に進学。就職活動時期は昭和大恐慌と重なり、日本銀行、日本興業銀行に不採用、日本鋼管に補欠で拾われる。 1941.2(S16)企画院に出向し、高等官嘱託という立場で従事。5ヶ月後の7月に鉄鋼統制会に移動し、戦時中で鉄不足が深刻な中、鉄供出に従事した。
 戦後、朝鮮特需、高度経済成長に乗り日本鋼管が波に乗っていた時期、営業部長、取締役を務める。前任の社長が急死し、'71社長に突然抜擢される。 「長い日本鋼管の歴史のひとコマを私なりに務めていこう」という思いで社長に就任。'83会長となり、後に相談役となった。この間、日加経済人会議の世話人に就任しカナダへの直接投資を積極的に行う。 また、横浜と川崎にまたがる人工島の扇島に公害防止装置をそなえた世界最大級の製鉄所を建設した。座右の銘は「聖人は常の師なし」。享年79歳。

<講談社日本人名大辞典など>


*日本鋼管(にっぽんこうかん)株式会社(NKK)は、1912(M45)本社を川崎市に浅野財閥の助力を借り白石元治郎が創業。戦前戦後と同業会社を合併し大きくなり、'49(S24)株式上場。 バブルが弾けたあたりから経営が悪くなり、2002(H14)上場廃止、株式移転により、川崎製鉄と共同でJFEホールディングスを設立。 日本鋼管はスポーツにも力を入れており、野球部、サッカー部、バスケットボール部(NKKシーホークス)、バレーボール部(NKKナイツ)などがあり、古豪として幾多のタイトルを獲得した。 日本バレーボール界の父と称された松平康隆(2-1-9)は日本鋼管所属である。

*墓石は和型「槇田家累代之墓」。裏面に「昭和十年十一月十七日 槇田久生 建之」と刻む。


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