代々鹿児島藩医の家系であり、前田元温も系譜に入る。祖父の圭太郎は東京帝国大学医学部の発展に尽くす。
父の蓬(よもぎ)は奥田裁縫女学校を継承し、杉並に1940(S15)前田高等家政女学校を創立し、理事長を務めた。
'45蓬が没したため、一時的に、蓬の妻のタメが菊華高等女学校理事長に就任。戦後'46前田高等女学校と改称し、翌年新学制により、菊華中学校と菊華高等学校と名称を変更した。なお、校章は前田家の家紋である。
'48新兵衛が母親から引き継ぎ理事長に就任。'51私学法制定により、学校法人「菊華学園」(2000年名称変更:杉並学院高等学校)となる。後年は自宅に病院を開設し診療を行った。
最初西洋医学を学び、30代半ばにして、世の中に浸透していなかった漢方を学び、薬よりも根本である人間本来の治癒力を大事にする医学を目指した。主な著書に『漢方と鍼灸療法』。享年58歳。
【前田新兵衛の逸話】
会社で働き蜂になり、今で言うストレスを抱えた患者の話。当時は ストレスなどと言う言葉はなく、どの病院に行っても「わからない」で診察が終わっていたそうだ。
その患者が新兵衛のところにきた。診察をした新兵衛は「今日、我が家で食事をしませんか」と 言ったそうだ。
患者は 訳もわからず、しかし、気分転換になるかと承諾し、夕方、医院の下の階にある茶の間にあがった。
白衣を脱いだ新兵衛と、エプロン姿の新兵衛の妻が笑顔で迎えた。お酒を飲み交わし、笑のある食事になった。患者のストレスはどこかにいってしまったようだ。
*新兵衛は写真家の長谷川伝次郎(8-2-8)の娘と結婚した。
前田元温 まえだ げんおん
1821(文政4)〜1901(明治34)
谷中霊園 乙5−2
幕末・明治期の医家
鹿児島藩士。旧名は前田杏斎、後に前田信輔。京都に出て禁裏附典医について医学を修めた。藩主島津斉興の参勤に従って江戸に出て、幕医多紀楽真院(江戸医学館)で学ぶ。
次いで藩主の命により洋医の坪井信道に学び、1849(嘉永2)長崎に出て、蘭医モーニケに学ぶ。
モーニケが舶来の牛痘を用い種痘を行い、その結果の良いのをみて、牛痘接種法を修め帰藩し、薩摩藩における牛痘接種法の実施に尽力した。
1864蛤御門の変に西郷隆盛の嘱を受け、病院の設備をなし、傷者を治療した。
1868(M1)鳥羽伏見の戦いに隆盛に医を嘱されたが、当時わが国の医者外科術が開けぬ故を以て英人ウィリスを招聘して負傷兵の治療にあたらせた。
同年御親兵病院医師、また官設病院開設を建議した。横浜軍病院を東京に移して大病院と称し、その院務を司った。
主宰として昌平坂医学校を、大学東校と名称を変更、本科では、解剖・生理・薬物・病体解剖学・病理・治療学・毒物学を教えた。
のち警視医学校の院長となり裁判医学(法医学)の基を開いた。1877西南の役には戦場に警視病院を設け治療にあたった。
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