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くの けんじろう

久野謙次郎

くの けんじろう

1847(弘化4.10.11)〜 1880.12(明治13)

明治期の大蔵省官僚(地租改正の功労者)

埋葬場所: 12区 1種 7側

 出羽亀田藩(秋田県)出身。藩校の長善館に通学し、漢学は続日本外史や城制大意の著者で知られる佐藤梅軒(憲欽)や吉田陽芝や松村英游に学んだ。 藩校の道場揚武館では、林崎流居合・関口流柔術・小野派一刀流・日置流弓術を、馬場に出ては大坪流馬術と武道は百般にいたるまで徹底して鍛えられた。 久野のほか、大日本武徳会創立者となる鳥海弘毅、大正天皇の時の東宮主事を務めることとなる中田直慈の3人は優秀で三羽烏と言われ、師の佐藤梅軒もこの3人を「出藍のほまれ」であると自慢していたほどである。
 1870(M3)藩から貢士(遊学生)として抜擢され、3人とも藩費にて東京帝国大学の前身の南校に入学した。卒業前に3人とも大蔵省に入省。
 1873(M6)明治新政府が日本にはじめて土地に対する私的所有権を確立した租税制度改革(土地制度改革)である「地租改正」の大事業に、租税中属として専念。西海北陸を担当して抜群の成績をあげた。 同.10 勧業大属の青山純と共に奄美諸島全域の調査を命ぜられ、鹿児島県大島郡内を巡視し、当時の生活状況を調べた。これをまとめた手記・報告書『南島誌 大島之部』は貴重な資料とされている。
 1877西南戦争の時は鹿児島にあって、大山鋼良に大義を説いたことは有名である。大蔵小丞まで昇進したが、33歳の若さで他界した。従6位。

<あきた通巻84号・「人・その思想と生涯」>
<奄美の自由民権運動史年表>


墓所

*墓所には3基の墓石と、右側に墓誌が2つ並ぶ。墓所正面墓石「久野家之奥津城」、左は親戚とみられる墓石、右に「従六位 久野謙次郎 之墓」。久野謙次郎の墓石は左面から裏面にかけて略歴が刻む。この履歴は同じ大蔵官僚として活動した友人の渡邊国武(14-1-1-10)によるもので、従三位と名前と伴に友人という刻みも見れる(M14.10に刻まれた)。墓所右側の墓石に近い墓誌には「久野家先祖代々霊」と刻み、久野謙次郎、久野太郎、久野冨興の名が連名で刻み、平成22年3月 谷中霊園より改葬された旨が刻む。


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