岡山県出身。祖父は内務官僚・社会事業家の窪田静太郎(同墓)。父は裁判官の窪田幹太。1954(S29)東京大学法学部第一類科卒業。在学中に国家公務員試験法律職合格(1953.10)。
卒業後、大蔵省に入省。大蔵事務官・銀行局検査部審査課に配属。'54.7 同部特殊金融課、'56.4 銀行局金融制度調査官付、'57.5 関東財務局理財部金融課、同.7 同課金融検査官、'59.6 大臣官房調査官、'61.8 主計局、同.11 主計局主計官補佐心得、'62.4 主計局主計官補佐、'64.7 公共事業の主計局主計官補佐、'66.8 同局調査課課長補佐、'67.8 同局総務課課長補佐、'70.7 広島国税局直税部長、'72.7 銀行局金融制度調査官を経て、主計局次長、経済企画庁官房長、大蔵省理財局長を歴任した。
'87 国税庁長官に就任。'89(H1)国民金融公庫副総裁に転じ、'91 北海道東北開発公庫総裁。バブル経済の崩壊で巨額の不良債権を抱えていた日本債券信用銀行(日債銀)の再建を託され、'93 第9代 頭取に就任し、'96 会長を兼任した。'97 会長専任。'98 同行が経営破綻し、一時国有化されたことにより会長を辞任した。
'99 日債銀の再建をめぐり、不良債権を隠して決算を粉飾した疑いで証券取引法違反の罪に問われ(日債銀事件:1998年3月期決算で不良債権の貸し倒れ引当金1592億円を隠していた)、会長であった窪田弘、頭取だった東郷重興、副頭取だった岩城忠男の経営陣三名が逮捕・起訴された。1審・2審ともに3被告に懲役1年4か月、執行猶予2年の有罪判決が下されたが、高裁は2審判決を棄却し、審理を東京高裁に差し戻した(やりなおし裁判)。2011.8 東京高裁は地裁判決を破棄し、逆転無罪となった。享年81歳。没後、2014 『追悼 窪田弘』が刊行された。
<大蔵省人名録> <講談社日本人名大辞典> <朝日新聞出版 知恵蔵mini>
【日本史上初の旧大蔵省出身者の逮捕、そして逆転無罪まで】
日本債券信用銀行(日債銀)は現在のあおぞら銀行である。日債銀の前身は朝鮮銀行であり朝鮮銀行は戦前に朝鮮半島に日本が設置した中央銀行である。日本が設立した銀行であったが、株は民間人も持て、弘の祖父の窪田静太郎も株主であった。
戦後、朝鮮銀行が解体され、その資産で韓国では韓国銀行、北朝鮮では朝鮮中央銀行が設立され、日本国内の資産は長期信用銀行法(1957)によって新設された日本不動産銀行に引き継がれた。この設立に大蔵官僚であった窪田弘も携わっていた。1977 日本不動産銀行は日本債券信用銀行と名称を変更した。
この頃、特定の金融機関が特別な法律に基づき、資金調達のために発行する債券が人気であった。日債銀は半年ごとに一定の利息が支払われる「利付金融債」のワリシン(旧ワリフドー)と、利息分の金額を割り引いた価格で発行され額面で償還する「割引金融債」のリッシン、リッシンワイドの2種類を出していた。無記名で購入ができ、誰が買い、誰に渡してもわからないという都合が良い代物だった。
バブルがはじけた90年代、いくら無記名で購入ができるとはいえ、巨額のワリシンを出している日債銀を無視できない状況となる。税の番人である国税庁長官を務めた窪田弘が日債銀の改革者として抜擢された。なお政治家の金丸信の家宅捜査で約12億円ものワリシンを簿外資産として持っていたことを突き止めた事件(1993.3.7)のときの国税庁長官だったのが窪田弘であったことも抜擢の理由であった。
窪田弘は日債銀の顧問として入り、頭取、そして代表権のある会長専任に着任していく。しかし、翌年の1998.12.12 政府は経営再建中の日債銀に、金融再生法に基づく一時国有化の適用を通告。これにより日債銀は破綻し窪田弘も会長職を追われた。立て直すことができなかった結果となってしまった。
その半年後に粉飾決算疑惑があるとして証券取引法違反容疑で逮捕された(日債銀事件:1998年3月期決算で不良債権の貸し倒れ引当金1592億円を隠していた)。会長であった窪田弘、頭取だった東郷重興、副頭取だった岩城忠男の経営陣三名が逮捕・起訴された。旧大蔵省出身者が逮捕されたのは日本の歴史において初めてのことであった。
2000.1 東京地裁で初公判。公判は東京地裁で67回、東京高裁で35回にのぼる。裁判の流れはなかなか変わらず、2004.5 地裁は3被告に懲役1年4か月、執行猶予2年の有罪判決を下し、2007.3 高裁は控訴を棄却した。しかし同様に旧経営陣の責任が問われていた長銀の民事訴訟では整理回収機構から違法配当による損害賠償を求められていたが、1審・2審・最高裁ともに旧経営陣が勝訴したことで光明が見え始める。
2009.12 2 審判決を棄却し、審理を東京高裁に差し戻した。2011.8 東京高裁は地裁判決を破棄し、逆転無罪となった。その1年半後に窪田弘は亡くなった。
<「ドキュメント 銀行 金融再編の20年史─1995-2015」前田裕之> <「窪田弘被告という人生もまた良し」極東ブログ finalvent など>
*墓所には三基建つ。正面右が和型「枢密顧問官 正二位 勲一等 窪田静太郎之墓」、左面「昭和二十一年十月六日薨去 享年八十二才」。正面左が和型「窪田静太郎室金子之墓」、右面「岡山縣士族 赤堀道綱 長女」、左面「昭和七年七月十六日歿 享年五十八」と刻む。墓所右側に洋型「窪田家之墓」、左面「平成二十四年十一月 窪田弘 建之」、裏面は墓誌となっており窪田弘(H25.1.31没・享年83才)が刻む。
*窪田静太郎と金子は窪田幹太を養子としたが、同墓に名前が刻まれていない。なお、窪田幹太は裁判官。幹太の長男が窪田弘。
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