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くぼ まさきち

久保政吉

くぼ まさきち

1890(明治23)〜 1947.3.13(昭和22)

大正・昭和期の実業家(化粧品・utena)

埋葬場所: 16区 1種 1側

 1918(T7)東京本郷にて薬局「天仁堂」を開業。当時はスペイン風邪が流行していたこともあり、衛生面を踏まえた脱毛剤・歯の漂白剤などの製造販売を始めた。
 '23 ゴム会社で働いていた友人が「ゴムを触っていると手の汚れが良く落ちる」と聞き、これが商品開発のヒントになる。これまでの皮膚に白粉をつける従来の化粧品とは異なり、皮膚の汚れを除去して、地肌を白くする当時としては画期的な美容液である「ウテナ液」を完成させた。
 「ウテナ」は花の「萼(うてな)」から来ており、「花の額」のことである。美しい花を支える部分が萼であるように、女性の美を根幹から支える企業でありたい(すべての人の美しさを支えたい)という思いが込められた。
 婦人雑誌「主婦の友」に妻の久保とも(同墓)名義で広告を出して通信発売をはじめる。ウテナ液は化粧品市場に最初の「美白美容」の概念をもたらすことになり、華美に飾るのではなく人間本来の美しさを追求するヒューマンケアの考え方を示し注目された。
 '27(S2)久保政吉商店を創業し、東京世田谷の南烏山に工場を設立。「ウテナ液」(美白液・三号瓶1円)生産販売に本格的に乗り出す。以後、'28「ウテナ粉白粉」「水白粉」、'29 「バニシング(雪印・無脂肪)」「ハイゼニック(月印・中性)」「コールド(花印・脂肪)」の3種類の「ウテナクリーム」を発売して大ヒット。女性に親しまれ、皇后陛下にも献上された。
 当時のトップスターであった水谷八重子、山地ふみ子らを広告ポスターに起用し、映画やオペラなどに協賛を行うことで知名度を上げていった。
 '34 伊豆長岡の源氏山の麓に、本館である「主屋」と離れの「宇治」「田舎家」「京家」の4棟を建て別荘を営み、'39 古奈ホテルとして開業した。
 '37 社名「ウテナ本舗 久保政吉商店」と改組。美人画家で人気を博していた東郷青児や、モダンガールを描いた風俗画で知られた挿絵画家の田中比左良らを起用し、美しい女性のイラストデザインの冊子や商品のパッケージをつくり、ウテナの販促活動として活用したことでも人気継続となった。
 戦後、'46 久保政吉商店をウテナ薬品工業に改称。物資が足りない中でも「商品の質を落とすことは絶対しない」と社員を激励し、会社一丸となり生産に取り組む。しかし、翌年、57歳で逝去。
 '47 当時22歳の学生であった長男の久保徳全が2代目社長に急きょ就任した。'50 社名を「株式会社ウテナ」に変更し、父の事業を継承。お客様の希求をかなえる商品開発販売を行い化粧品メーカーとして事業を拡大していった。

<近代日本の先駆者事典>
<History of utena>


墓所

*墓石は蔵状「久保家累代之墓」、裏面「昭和二十八年三月建之 久保徳全」。右に墓誌が建ち、久保政吉から刻む。妻は とも(S47.3.26没・行年79)。長男の久保徳全、徳全の妻は十字架に「マリア 久保尚美」(H12.2.5)が刻む。

*世田谷文学館の隣に旧久保政吉の大邸宅が建っていたが、2009(H21)解体された。門と塀、ツタに覆われた煉瓦造の蔵を残し、 現在は「芦花翠風邸」という介護付有料老人ホームになっている。



第291回 日本初の美白美容 ヒューマンケア ウテナ utena
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