1918(T7)東京本郷にて薬局「天仁堂」を開業。当時はスペイン風邪が流行していたこともあり、衛生面を踏まえた脱毛剤・歯の漂白剤などの製造販売を始めた。
'23 ゴム会社で働いていた友人が「ゴムを触っていると手の汚れが良く落ちる」と聞き、これが商品開発のヒントになる。これまでの皮膚に白粉をつける従来の化粧品とは異なり、皮膚の汚れを除去して、地肌を白くする当時としては画期的な美容液である「ウテナ液」を完成させた。
「ウテナ」は花の「萼(うてな)」から来ており、「花の額」のことである。美しい花を支える部分が萼であるように、女性の美を根幹から支える企業でありたい(すべての人の美しさを支えたい)という思いが込められた。
婦人雑誌「主婦の友」に妻の久保とも(同墓)名義で広告を出して通信発売をはじめる。ウテナ液は化粧品市場に最初の「美白美容」の概念をもたらすことになり、華美に飾るのではなく人間本来の美しさを追求するヒューマンケアの考え方を示し注目された。
'27(S2)久保政吉商店を創業し、東京世田谷の南烏山に工場を設立。「ウテナ液」(美白液・三号瓶1円)生産販売に本格的に乗り出す。以後、'28「ウテナ粉白粉」「水白粉」、'29 「バニシング(雪印・無脂肪)」「ハイゼニック(月印・中性)」「コールド(花印・脂肪)」の3種類の「ウテナクリーム」を発売して大ヒット。女性に親しまれ、皇后陛下にも献上された。
当時のトップスターであった水谷八重子、山地ふみ子らを広告ポスターに起用し、映画やオペラなどに協賛を行うことで知名度を上げていった。
'34 伊豆長岡の源氏山の麓に、本館である「主屋」と離れの「宇治」「田舎家」「京家」の4棟を建て別荘を営み、'39 古奈ホテルとして開業した。
'37 社名「ウテナ本舗 久保政吉商店」と改組。美人画家で人気を博していた東郷青児や、モダンガールを描いた風俗画で知られた挿絵画家の田中比左良らを起用し、美しい女性のイラストデザインの冊子や商品のパッケージをつくり、ウテナの販促活動として活用したことでも人気継続となった。
戦後、'46 久保政吉商店をウテナ薬品工業に改称。物資が足りない中でも「商品の質を落とすことは絶対しない」と社員を激励し、会社一丸となり生産に取り組む。しかし、翌年、57歳で逝去。
'47 当時22歳の学生であった長男の久保徳全が2代目社長に急きょ就任した。'50 社名を「株式会社ウテナ」に変更し、父の事業を継承。お客様の希求をかなえる商品開発販売を行い化粧品メーカーとして事業を拡大していった。